2023.8.24
鏡が浮き彫りにするのは、目に見えない真実か、仮初の現実か 第10回 画家の目としての鏡の役割
しかし、水鏡と最も結びつきが深いのは、ナルキッソスだろう。オウィディウスの『変身物語』によれば、河神の息子ナルキッソスは、誰からも思いを寄せられるほど非常に美しい青年だった。ただ傲慢な思い上がりから、彼は誰にも恋することなく思いに応えることはなかった。その中には、ヘラの怒りにより他人の言葉を繰り返すことしかできないエコーという森のニンフも含まれている。彼女は拒絶の悲しみのために姿を失い、木霊となってしまった。やがてある日のこと、ナルキッソスは泉に映し出された己の姿に恋焦がれてしまうことになる。ついには水の中の美しい人のそばから離れられず、やつれた彼は命を落とし、その跡には水仙の花が咲き乱れた。
この神話は様々な画家たちによって手掛けられているが、ニコラ・プッサンの〈エコーとナルキッソス〉(一六三〇年)のように、泉に映る己に恋する青年とその姿を悲しげに見守るニンフを描いたものが多い。そこでは、鏡像を見つめるナルキッソスを見るエコーという視線の一方的な流れが強調されている。プッサンの場合、力尽きて横たわる青年の頭の周りに水仙が咲き乱れ、その死と変容を仄めかす。同時に、横たわる岩場に半ば溶け込んだエコーの描写は、彼女が姿を失った声だけの存在であることを示しているのだ。すでにナルキッソスが泉の中を見つめることはなく、エコーの眼差しもまた想い人から離れ、宙に向けられたままだ。この絵は、鏡像がいないために見るという関係が破綻しており、だからこそ死の翳りを帯びているのかもしれない。
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鏡像との閉ざされた関係を表した最も印象的な作品は、カラヴァッジョの〈ナルキッソス〉(一五九七―九九年)だろう。陰影のくっきりとした画面内に、ナルキッソスと水に映る姿だけが浮かび上がる。彼は陶酔した表情で水の中を覗き込み、鏡像の視線に絡めとられている。青年の服装はカラヴァッジョの時代のもので、白いたっぷりとした袖が暗闇に映えている。一方の脚は青いズボンに覆われているが、もう一方は膝が剥き出しになっている。この膝はちょうど局部の位置に置かれているために、男性性器を象徴していると指摘されてきた。つまり、青年は水に映る己の姿に、性的な欲望を抱いているのだ。ナルキッソスと鏡像の境界は、そのまま彼が跪く岸辺と水面でもあるが、絵の具の白い描線によって明らかとなっている。
この絵をよく見ると、ナルキッソスの左手が水中に潜り込んでいることが分かるだろう。しかし、手が境界を越えても、水鏡はその動きに乱されず揺らぐことなく静まり返っている。鏡像も同じく壊れることはない。むしろ手は水中で鏡像の手と触れ合っているように見える。本来は手が水に差し込まれた時点で、わずかな動きまでもが伝わり、そこに映る姿はばらばらに壊れてしまうはずである。そして、彼が恋する存在とは決して触れ合うことが敵わないのにもかかわらず、泉の中の二つの手は互いに触れているようにも触れていないようにも見えるだろう。この作品は、水面を境にただ見つめ合うだけの閉ざされた関係を表しているが、同時にその綻びをも盛り込んでいるのだ。現を惑わす虚構という仕掛けは、そのまま鏡像と青年の関係をも表しているのかもしれない。
ナルキッソスは水鏡の向こうに、自分という他者を見出した。鏡に映るものは左右反転するために、鏡像はある意味双子のようによく似た、しかし完全に自分とは一致しないものとなる。画家たちもまた、鏡を用いてその分身的な存在を描くことがある。写真技術のない時代に自画像を描こうとする時、鏡を通して私という対象を観察していた。そのために中には、鏡像と自画像の奇妙な関係を表した作品もまた見られるのだ。
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