2023.6.22
神秘、自由、孤独や幻想…時代とともに移り変わる闇と夜の描かれ方 第9回 絵画の中の夜
全体の雰囲気、色使い、モチーフ……さまざまなアプローチがありますが、細部の意味や作品世界の背景を知れば、より深く絵画を味わうことができます。
古代ギリシャ・ローマ神話、キリスト教、聖母、聖書の物語世界、寓意、異端、魔女……画家が作中に散りばめたヒントに込められた意味とは。
小説執筆と並行して美術研究を重ねる、芥川賞作家の石沢麻依さんによる西洋絵画案内です。
第9回 絵画の中の夜
――寝不足で重たい目に飛び込んできたのは、あまりにも鮮やかな青でした。明るい月夜のような青に包まれた時、私が探していた深く眠れる場所を見つけた気がしたのです。――
数年前の夏、青の絵葉書が私のもとに届いた。机の引き出しの奥に溜まった手紙や葉書を整理していた時のこと、かさかさと乾いた音を立てる紙の間から、スクロヴェーニ家礼拝堂内の写真がひっそりと顔をのぞかせた。暗がりから急に引き出され驚いたように、写真の中の色鮮やかな青が大きく瞬きをする。
絵葉書を送ってきた友人のKは、その夏イタリア北部の聖堂を巡る旅をしていた。スイスを経由してミラノに着いた後、ジェノヴァ、ピサ、フィレンツェ、ボローニャと移動し、パドヴァまでやって来たという。友人の間でKは手紙魔と言われており、旅行中に絵葉書を買い求めては家族や知り合いに短いメッセージを綴って送ることを繰り返していた。そんな彼女から、スクロヴェーニ家礼拝堂の天井と壁の一部を映した絵葉書が舞い込んできた。涼しげなブルーブラックの文字は所どころ滲んで崩れながらも、不思議な言葉を短く連ねている。そこに記されていたのは、壁画の青と不眠、そして静かな場所について。
絵画巡りが好きなKと私には、不眠症という共通点がある。不眠の苦しみを知るからこそ、私たちの間では眠れない夜の過ごし方や、旅先で上手く眠りに入る方法、安眠に効果的な飲み物や本、落ち着く枕の形などの話題は珍しくなかった。
記事が続きます
イタリアを旅する間も、Kは相変わらず不眠に付きまとわれていた。一日中聖堂を巡って溜め込んだ疲労のおかげで何とか一定の睡眠時間は確保できたものの、宿の廊下や部屋の窓の下の通りの騒がしさに、夜の間幾度となく目を覚ます。そんな中、重い眠気を引き連れた彼女が出会ったのが、スクロヴェーニ家礼拝堂の壁画と天井画だった。キリストと聖母マリアの生涯を描いたそこには、夜の場面もまた含まれている。しかし、ラピスラズリを砕いた顔料で塗られた空は、一様に深く澄んだ青を湛えており、昼と夜の区別をつけるのは難しい。それでも鉱物的な青に覆われた天井は、黄金の星が装飾的にちりばめられ、夜の気配を漂わせる。それは寝不足で苛立つKの中に静けさを滴らせ、尖った神経を涼しくなだめるのだった。
地中海から北極圏まで、南北に延びるヨーロッパの夜は不思議な表情を見せる。遅くまで、場所によっては一晩中白く明るい夏の夜と、冷たくどこまでも続く冬の夜。今でも季節や緯度の高さで、夜のイメージやその付き合い方は異なるだろう。そして、長い時間をかけて、薄布をそっとめくるように、夜の姿は次第に捉えられるようになったのである。それは絵の中の夜の描写からも明らかだ。暗い背景や空の一部という断片的なものから、光と対置される暗闇を経て、やがて夜という特別な場まで、画家たちはイメージを織り成してきた。ガスや電気など明るい人工照明がなかった頃、太陽が照らす時間が自動的に背景に取り込まれることが多かった。すべてが闇に沈み、濃く重たい暗色に包まれてしまえば、色彩を見出すことは難しく、絵画はただの単調な黒になってしまうだろう。だからこそ、古い絵画の中で夜は記号的に表されていた。黄金の星が散らばる暗い青の空は、タペストリーの模様めいて平面的な印象を与えるはずだ。さらに、太陽の運行で一日の時間を編み出す中世とそれ以降の時代、夜は悪魔の闊歩する時間帯だと恐れられていた。しかし、天文学や照明技術の進歩、都市の発展により、夜の捉え方は変化し、絵画にも反映されてゆくことになる。同時に、そこには神秘や自由、孤独や幻想などが投影されていった。
記事が続きます