2023.4.27
ボッティチェリ、クラーナハがウェヌス(ヴィーナス)を通して伝えたかったこととは 第7回 美女たちが見つめる先に映るもの
女神たちの三重の美を描くことができるこの主題は、ルネサンス期以降人気であったが、ルーベンスはアトリビュートで三人を描き分けつつも、その体つきはほぼ同じと見えるだろう。ただし、ここには小さな仕掛けが施され、背面、横、正面と三方向から余すところなくその美しさを目にすることができるようになっているのだ。そして、「パリスの審判」には、ルーベンスのように古代風の描き方をするものもあれば、描写に画家自身の時代が反映されている場合もあった。例えば、十五世紀後半から十六世紀前半、スイスで活動していたニクラス・マヌエルの〈パリスの審判〉(一五一七―一八年)は、当時のスイスやドイツの服装や装飾を取り込んでいる。横顔を見せるパリスには古代の羊飼いという様子はなく、当時の上流階級の服装に身を包んでいる。画面左端のアテナの武具は、この地域の騎士のものに似通い、隣に立つヘラの装いは当時の女性のファッションと一致する。同様に、パリスを前にしたウェヌスの髪や首の飾りも、時代を写し取っているのだ。
さらに、ウェヌスは神話画のみならず、教訓的な内容を含んだ寓意画にも登場するようになった。ドイツ・ルネサンスの画家ルーカス・クラーナハ(父)もまた、独自のウェヌス像を確立していた。彼はアルプス以北の地域で、最初に古代の理想的な姿をしたウェヌスを取り入れた画家であり、一五〇九年にはこの女神の等身大の裸体像を描いている。そんなクラーナハの当時人気を博した作品の一つが、〈ウェヌスと蜂蜜泥棒のクピド〉(一五三〇年)であった。静謐な暗闇の中、ウェヌスと息子のクピドの姿が艶やかに浮かび上がる。この暗い舞台を飾るのは、小石のちらばる地面、瑞々しい草むら、そして大きな洞のある枯れ木であった。玉蜀黍めいた形の蜂の巣を手にするクピドは、蜂に刺されたのか、もの言いたげに母ウェヌスを見上げている。しかし、彼女の眼差しは息子ではなく、鑑賞者の方に向けられているのだ。長い脚をひねったその立ち姿のため、地に足をつけていながらも、どこか優雅な浮遊感を観る者に感じさせるだろう。羽根飾りのある緋色の天鵞絨の帽子、赤みがかった髪をまとめる宝石飾りのあるネット、重たげな金の首飾りなど宮廷女性が身に着けるような装飾品に加え、白い陶器の質感のある裸体は、クラーナハが描く女性像に共通するものである。そして、ウェヌスのまとう透明なヴェールは、隠すという建前を示しつつも、むしろ肢体を思わせぶりに飾るものとなっているのだ。
クラーナハのこの主題の作品には、深い黒に塗りつぶされただけのものと、豊かな自然風景を取り入れたものと二種類の背景がある。同主題の〈ウェヌスに窘められるクピド〉(一五二五年頃)では、果実がたわわに実る樹木、鹿が隠れる深い森、湖畔に聳える奇岩などが描きこまれた。その中で、しなやかな姿態のウェヌスは、不思議な微笑を浮かべている。
この主題は、紀元前三世紀ギリシアのテオクリトス作『牧歌』を下敷きにしている。蜂の巣から蜂蜜を取ろうとしたクピドは、蜂に指を刺されてしまう。それを見た母ウェヌスが、小さな泥棒をこう窘めるのだ。クピドの矢傷は、蜜蜂の針よりも痛みをもたらす、と。ラテン語に翻訳されたこの詩句は、〈ウェヌスと蜂蜜泥棒のクピド〉の画面右上に記され、観る者への教訓となっている。だからこそ、ウェヌスは鑑賞者の方を見つめているのだ。この蜂の一刺しは梅毒とも解釈されており、肉体的な快楽に溺れることへの警告でもあった。しかし、多くの教訓画と同様、クラーナハ作品でもこの類の警句は、美しい女性を見るという視覚的享楽を正当化するものであった。
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古代から呼び戻された女神は、幾重にも重なる神話画や寓意画の中を通り抜け、さまざまな姿を与えられてきた。宮廷の祝祭や婚礼、風刺文学や人文主義思想などでウェヌスは飾り立てられ、時には建前で覆われ、時代や地域を反映し、変容を繰り返す。美の女神という肩書に相応しい姿を、芸術家たちはカンヴァスや色彩の中に、石や木の奥に見出そうとしてきた。古代風の装いをしようとも、そこに映し出されるのは、常に時代の眼差しである。それを遡れば、ウェヌスという原型にたどり着くはずだが、重なるイメージの襞が多すぎて、奥に隠れる身体までたどり着くことは難しい。芸術家たちは、その向こうへとすり抜けてゆく女神の姿を追い求め形を作ることで、また新たなイメージの襞を織りなすのだろう。
展覧会をくるりと巡って絵画館の外に出ると、急に時差ぼけのような感覚に襲われた。ボッティチェリの甘く芳醇な色彩と、黄昏めいた柔らかな金の光から、ベルリンの灰色の雨が降る冬の街へ。五百年分ほどの時間もついでに超えてしまったので、コートやマフラーで厚着した身体は、すでにもろもろと解けてしまっているのかもしれない。黒く濡れた石畳の上で、白と金の帆立貝の殻は、相変わらずぽっかりと口を開けたまま、所在なさげに佇んでいる。海から生まれた女神は、貝を置き去りにして、その痕跡も残さないままどこかに行ってしまった。目を凝らし手を伸ばしても、今やそこは空白となってしまっている。貝殻から始まった女性たちの無数のイメージが、街のあちこちへと紛れ込んでゆく。そう思い描きながら、私もまたベルリンの冷えた灰色の中へと足を進める。
編集協力/中嶋美保
次回は5月25日(木)公開予定です。
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