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ボッティチェリ、クラーナハがウェヌス(ヴィーナス)を通して伝えたかったこととは 第7回 美女たちが見つめる先に映るもの

 調和する戦いと愛として、この恋人たちは婚礼用の絵画で頻繁に取り扱われ、ルネサンス期以降の宮廷文化においても人気の主題であった。その一つに、マントヴァの宮廷画家アンドレア・マンテーニャの手になる〈パルナッソス〉(一四九七年頃)が挙げられる。この作品は、サン・ジョルジオ城の書斎を飾るものとして制作された。書斎の主はイザベッラ・デステ、画家の主君であるマントヴァ候フランチェスコ・ゴンザーガの妻であり、文芸や芸術のパトロンとして、その教養の高さが国内外に知れ渡っていた。
 マンテーニャのこの絵の中央には、パルナッソス山頂がそびえ立ち、そこにマルスとウェヌスの恋人たちが腕を絡め合いながら佇んでいる(1)。この山が太陽神アポロンや九人のムーサたちの住処すみかであることを示すかのように、絵の前景左端ではアポロンが竪琴をかき鳴らし、それに合わせて、技芸の女神たちは手を取り舞っている。ムーサは左右に四人ずつ分かれ、真ん中で背を向けオリーブ色の服をまとう女神が、二つのグループの繋ぎの役を担っているのだ(2)。彼女は天文学を司るウラーニアであり、一人だけ鑑賞者から顔をそらし、恋人たちの立つ岩山に穿うがたれた丸い穴から、遥か遠方へと眼差しを向けている。
 このパルナッソス山の情景には、十五世紀当時の婚礼の要素がちりばめられている。マルスとウェヌスの背後に置かれた寝台は、ゴンザーガ家とエステ家を表す赤と青、白、金で彩られていることから、マントヴァ候とイザベッラ・デステの婚礼を祝していると考えられてきた。つまり、山頂に立つ二人の神は、当時の結婚肖像画の多くのように、花婿と花嫁に見立てられているのだ。そして、ムーサたちの舞もまた、婚礼の祝宴でお披露目されるものを重ねている可能性が高い。
 その一方で、この絵画には性的な要素も盛り込まれていた。戦の神は愛の女神の足の上に、自身の足を思わせぶりに載せている(3)。前景の針鼠と兎もそれぞれ、マルスとウェヌスを象徴しており、針で武装する針鼠に対し、兎は性的な欲望を表しているのだ(4)。さらには、画面右端で天馬と共に佇む伝令神ヘルメスの左手が携えるのは、牧神パンの笛(パンパイプ)であった(5)。パンはヘルメスの息子とも言われ、山羊姿の下半身は色欲を象徴している。そして、何よりも画面左側の岩山で、洞穴を背にする鍛冶の神ウルカヌスの存在が、恋人たちとは対照的に描かれているのだ。ウェヌスの夫であるこの老いた神は、妻と愛人の姿を目にして、怒りにかられ脅しの身振りを見せる(6)。しかし、恋人たちはお互いに見つめ合うばかりで、ウルカヌスに気づく様子はない。クピドがラッパをウルカヌスに向けて、高々と「愛の勝利」の音を響かせているだけだ。このように、軍神と愛と美の女神の勝利を謳う絵画は多いが、ヴェネツィア派の画家パリス・ボルドーネの〈ウェヌスとマルス、クピド〉(一五六〇年頃)もまたその一例に挙げられるだろう。マルスもウェヌスも古代の神々と言うよりは、十六世紀ヴェネツィアの人々と思しき姿を見せている。二人の頭上に栄誉の月桂冠を掲げるのは、白い服に有翼の勝利の女神であった。さらにウェヌスの指がつまむマルメロの実は、結婚を象徴しているために、この絵は婚礼祈念画としての機能を持ち合わせているのだ。

アンドレア・マンテーニャ 〈パルナッソス〉1497年頃、パリ、ルーヴル美術館
アンドレア・マンテーニャ 〈パルナッソス〉1497年頃、パリ、ルーヴル美術館
〈パルナッソス〉(1)腕を絡め合うマルスとウェヌスの恋人たち(2)九人のムーサたち(3)愛の女神の足の上に載せられた戰の神の足
〈パルナッソス〉(1)腕を絡め合うマルスとウェヌスの恋人たち(2)九人のムーサたち(3)愛の女神の足の上に載せられた戰の神の足
(4)兎と針鼠(5)天馬と共に佇む伝令神ヘルメス(6)ウェヌスの夫である鍛冶の神ウルカヌス
(4)兎と針鼠(5)天馬と共に佇む伝令神ヘルメス(6)ウェヌスの夫である鍛冶の神ウルカヌス
パリス・ボルドーネ 〈ウェヌスとマルス、クピド〉1560年頃 オーストリア、ウィーン〔美術史美術館〕
パリス・ボルドーネ 〈ウェヌスとマルス、クピド〉1560年頃 オーストリア、ウィーン〔美術史美術館〕

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 ウェヌスにまつわる神話は幾つもあるが、その中でも「パリスの審判」は絵画主題として特に好まれていた。これは、黄金の林檎を巡る女神たちの美の競い合いにまつわるものである。果実には「最も美しい女神へ」という言葉が刻まれ、神々の不和を狙って復讐の女神エリスがもたらしたものだという。ゼウスの妻ヘラ、知恵の女神アテナ、そして愛と美の女神アフロディテ(ウェヌス)の中から、林檎に相応ふさわしいのは誰か選ぶよう、トロイアの王子パリスが美の判定者としてゼウスに指名された。羊飼いとして育てられていた彼の歓心を買おうと、女神たちはそれぞれ贈り物を約束する。ヘラは「統治者の座」を、アテナは「戦の勝利」、アフロディテは「地上で最も美しい女性」を申し出たところ、パリスはアフロディテに林檎を差し出した。こうして、パリスにスパルタ王妃ヘレネが与えられ、トロイア戦争が勃発したのである。
 バロック期にアントウェルペンで活動していたピーテル・パウル・ルーベンスは、この主題の絵画を三点描いている。中でも最盛期の〈パリスの審判〉(一六三二―三五年)は、最もルーベンス特有の金色を帯びた豊かな色彩を湛え、光の表現や画面構成が美しく、かつ音楽的な躍動性に満ちているように思われる。画面右側の樹木の根元には、牧童杖を手にしたパリスが腰を下ろしている。足元には犬がうずくまり、離れた位置には羊の群れが見えるだろう。赤いマントと翼つき帽子を身に着けた伝令神ヘルメスは、ゼウスの命を伝え、黄金の林檎を手渡した後、パリスの決定の立会人として控えているのだ。この二人の前には、三人の女神が並んでいる。画面中央のヘラは、鑑賞者に背を向け、その横顔がわずかに窺えるのみとなっている。女神は毛皮の縁取りのある真紅のマントを肩から滑り落とし、その足元には聖鳥である孔雀を伴っていた(1)。その隣で半透明のヴェールをまとい、黒い外衣を手に佇むのがアフロディテ(ウェヌス)である。結い上げた金髪には、彼女を象徴する薔薇が飾られ、背後には矢筒を斜め掛けにしたクピドが屈みこんでいる。左端では、アテナが今まさに純白の衣を脱ごうとしているところだ。背後の樹木の根元には兜が置かれ、枝には赤い衣や槍、見た者を石に変えるというメドゥーサの頭部のついた盾が掛けられていた(2)。同じ枝には、アテナの聖鳥であるふくろうが羽を休め、じっとこの美の競合を窺っているようだ(3)。
 三人の女神を前にしたパリスは、すでに心を決めたのか、黄金の林檎を差し伸べていた。彼の手と眼差しの向かうその先にいるのはウェヌスである。美の判定がなされた瞬間を留めたこの場面は、まろやかな深い光とかげりに満ちている。しかし、画面右側の柔らかな青い空の方へ、左から灰色の雲が押し寄せてくるのが分かる。復讐の女神エリスによって引き起こされた不和が、やがて空を満遍なく覆い隠すかのようである。この暗雲と重い色彩は、後に続くトロイア戦争を暗示しているのかもしれなかった。

ピーテル・パウル・ルーベンス 〈パリスの審判〉1632―35年 イギリス、ロンドン〔ナショナル・ギャラリー〕
ピーテル・パウル・ルーベンス 〈パリスの審判〉1632―35年 イギリス、ロンドン〔ナショナル・ギャラリー〕
〈パリスの審判〉(1)女神の足元にいる孔雀(2)メドゥーサの頭部のついた盾(3)枝で羽を休める梟
〈パリスの審判〉(1)女神の足元にいる孔雀(2)メドゥーサの頭部のついた盾(3)枝で羽を休める梟

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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