2023.4.27
ボッティチェリ、クラーナハがウェヌス(ヴィーナス)を通して伝えたかったこととは 第7回 美女たちが見つめる先に映るもの
ブグローの〈誕生〉にも、ウェヌスの誕生を喜ぶ神々の姿が描きこまれている。西風のゼフュロスと女神クロリスのように、ここでは海の眷属たちが互いを抱擁し愛撫していた。上半身のみが人間の姿をした海神トリトンは、通常は下半身が魚の形をしている。しかし、ブグロー画では、馬の前脚を備えたケンタウロ・トリトンと呼ばれる姿が与えられている。このうち二人は、アトリビュートである巻き貝を携え、ラッパのように高らかに吹き鳴らしているところだ(1)。海神と共にいる女性たちは、海のニンフのネレイスである。彼らの間では、ウェヌスの息子であるクピドが、恋人プシュケーと共に、イルカに手綱をつけて乗りこなしている(2)。イルカはウェヌスの眷属であり、ルネサンス期にはそれを操るクピドの彫刻が制作されていた。そして、この祝祭的な場面をたどってゆくと、ラファエロの〈ガラテイアの勝利〉(一五一二年頃)に行き着くことになる。この作品ほど躍動的ではないものの、モチーフや画面の構成が似通っているだろう。
ボッティチェリの絵画と比べると、ブグロー画の方はより触覚的な官能性に満ちている。色彩を千々に載せて揺らめく波、帆立貝の白い柔らかさと硬さ、プットーたちの動きと同じ形状の雲、そしてウェヌスの重たげな髪と滑らかな肌。目で捉えたものがそのまま触覚的な情報となり、視線はそのまま指となってなぞる喜びに満ちてゆくのだ。
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ボッティチェリ以降も、ウェヌスの典型的なイメージを生み出した画家は後を絶たない。豊かな風景の中に、もしくは寝台に横たわる裸体の女神。この美しい図像をもたらしたのが、十六世紀ヴェネツィアの二人の巨匠、ジョルジョーネとティツィアーノである。横臥像の典型とされる前者の〈眠れるウェヌス〉(一五一〇年頃)は、ジョルジョーネの死後、弟子のティツィアーノの手で背景が描かれ完成した作品であった。穏やかな夕暮れの中、岩陰で白い敷布の上に横たわり、深い紅のクッションに身をもたせ掛けた裸婦は深い眠りに沈んでいる。右腕を頭の下に差し入れ、左手は恥部を隠した女性の身体は柔らかな曲線に覆われ、背景に重なる丘の輪郭と呼応しているような印象を受けるだろう。遠くに望む青い山影や水面、褐色の静寂に包まれた集落、細かな筆致で描かれた植物や草むら、そして夢想的な空。眠る女性を取り巻く全てが、彼女の夢の構成物なのかもしれない。そう思われるのは、この絵の中に空気が描かれているからだ。画面全体に静けさをもたらし、どこか遠く触れられない様子は、女性の眠りそのものを表しているのだ。
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