2023.4.27
ボッティチェリ、クラーナハがウェヌス(ヴィーナス)を通して伝えたかったこととは 第7回 美女たちが見つめる先に映るもの
全体の雰囲気、色使い、モチーフ……さまざまなアプローチがありますが、細部の意味や作品世界の背景を知れば、より深く絵画を味わうことができます。
古代ギリシャ・ローマ神話、キリスト教、聖母、聖書の物語世界、寓意、異端、魔女……画家が作中に散りばめたヒントに込められた意味とは。
小説執筆と並行して美術研究を重ねる、芥川賞作家の石沢麻依さんによる西洋絵画案内です。
第7回 美女たちが見つめる先に映るもの
冬の灰色に染まった街並みを背景に、大きな帆立貝の殻が一つ、無造作に置かれていた。人が一人乗ることのできるそれは、外側は鈍い金に、内側は柔らかな白に塗られている。張りぼての貝は十分に装飾的ではあるが、切れ目なく続く乾いたベルリンの街にはなじまず、歪に浮かび上がっていた。弱々しくも重たい陽射しの下、貝のオブジェは寒々しく晒されるだけで、そこに立とうとする人は誰もいなかった。
二〇一六年の元旦、私はベルリンのティーアガルテン地区にある絵画館で、ボッティチェリの豊かな色彩の中に潜り込み、彼の作品に向けられた無数の眼差しを追いかけていた。友人のところで大晦日を過ごし、その翌日に特別展覧会「ボッティチェリ・ルネサンス(The Botticelli Renaissance)」(二〇一五年九月二十四日―二〇一六年一月二十四日)を訪れていたのである。イタリア・ルネサンスの画家の一人、フィレンツェで活躍したサンドロ・ボッティチェリの神話画や宗教画、肖像画、そして素描が集められ、夕暮れ時を思わせる薄暗い展示室に、彼の絵画からこぼれる甘い光が滲み出す。同時に、ボッティチェリ作品に触発された作品も、一緒に置かれていた。特に、〈ウェヌスの誕生〉(一四八二年頃)と〈春〉(一四七七―七八年頃)はルネサンス以降の絵画、そして現代の写真や映画などでもパスティーシュされてきたのである。〈誕生〉の方では、貝の上に佇む裸体像として、〈春〉では白い服に赤のショールをまとう妊婦姿で、ウェヌス(英語読みはヴィーナス)が描きこまれている。十九世紀のラファエル前派が傾倒したボッティチェリ風の様式、アンディー・ウォーホルやルネ・マグリット、サルバドール・ダリなど二十世紀の画家たちによる作品の引用、その他にも活人画風の写真、絵画からイメージされた衣装や、現代的な解釈を下敷きにしたポスターなど、二人のウェヌスはさまざまな変容を見せていた。
ウェヌス(アフロディテ)は、古代から現代に至るまで無数のイメージをまといつつ、制作されてきた女神である。ヘシオドスの『神統記』によると、切り落とされたウラノスの性器が海に落ち、その時に湧き出た泡から、この愛と美の化身は誕生したとされている。鍛冶の神ウルカヌスを夫とするが、絵画の上では戦の神マルス(アレス)や美しい青年アドニスなど恋人と共に描かれることの方が多い。また、ウェヌスのアトリビュートとして、クピド(アモル)と呼ばれる有翼の幼児が、大抵は弓矢を手に寄り添っている。
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