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姿の数だけ信仰のスタイルがある。第5回 聖母とマグダラのマリアの描かれ方

 玉座につく聖母子像は、単独でも好まれて描かれていた。その一つに、シュテファン・ロッホナー作〈薔薇垣の聖母〉(一四五〇年頃)がある。ロッホナーは、十四―十五世紀に勃興したケルン派の画家の一人である。初期ネーデルラント絵画の写実性や緻密な描写が取り入れられ、写本芸術の影響による優雅で柔和な様式の作品が手がけられていた。〈薔薇垣の聖母〉もまた、どこか幻想的で優美な美しさに満ちている。ゴシック期の絵画の特徴である金地を背景に、小さな緑地と薔薇の咲き誇る垣根が広がっている。赤いクッションに腰を下ろす聖母を包むのは、湖のような柔らかな青の衣。頭部を覆うのは大きな光背と黄金と真珠、花をかたどる宝石で彩られた宝冠。胸元にも真珠と黄金の飾りが留められている。聖母マリアは裸の幼子キリストを膝に乗せ、陶器めいた白い腕で支えていた。この聖なる母子を、子供の姿をとった十一人の天使が取り囲んでいるが、四人はリュートやオルガン、ハープを奏でている(1)。七人は背後の薔薇垣で祈りを捧げ、薔薇の花に手を伸ばし、幼いキリストに向かって林檎を差し出す(2)。そして、聖母子の頭上では、金模様のある赤いカーテンを天使二人が開き、その間から父なる神が半身を見せ、聖霊である白い鳩を聖母子の方へと送り出している(3)。金地には、父なる神を取り囲む雲のような波模様と、そこからあふれ出す天上の光が線状に刻まれているのだ。

シュテファン・ロッホナー〈薔薇垣の聖母〉1450年頃  ドイツ、ケルン[ヴァルラルーフ・リヒャルツ博物館]
シュテファン・ロッホナー〈薔薇垣の聖母〉1450年頃  ドイツ、ケルン[ヴァルラルーフ・リヒャルツ博物館]
(1)リュートやオルガン、ハープを奏でている四人の天使 (2)幼いキリストに向かって林檎を差し出す天使 (3)白い鳩を聖母子の方へと送り出している父なる神
(1)リュートやオルガン、ハープを奏でている四人の天使 (2)幼いキリストに向かって林檎を差し出す天使 (3)白い鳩を聖母子の方へと送り出している父なる神

 聖母子の居るこの小さな緑地は、「閉ざされた庭」を象徴している。この特別な空間は聖母の純潔を表し、塀や樹木に囲まれた庭園として描かれることが多い。例えば、フィリッポ・リッピ〈受胎告知〉(一四四三―五〇年)の画面奥の白い石塀に囲まれた庭園や、先に挙げたメムリンクの〈ジャン・ド・スリエの二連祭壇画〉の樹木が連なる、出入り口の見当たらない緑地が典型的な描写として挙げられる。一方、薔薇もまた「閉ざされた庭」によく見られるモチーフである。サンドロ・ボッティチェリの〈聖母子と若き洗礼者聖ヨハネ〉(一四七〇―七五年頃)では、聖母子の背後に延びる緑の生垣に赤と白の薔薇が咲いているが、赤い薔薇はキリストの受難を、白は聖母の純潔を暗示するものであった。
 ロッホナー作における「閉ざされた庭」は、薔薇以外の植物によっても象徴的に彩られている。生垣のそばには、聖母の純潔を表す白い百合が咲き誇り、その足元を覆う精緻な緑の葉の中には野苺の実と白い花が含まれている。このどちらもが聖母の処女性を象徴していた。画面右の籠を持つ天使が差し出し、幼子キリストが手にする果実は林檎の実である。エデンの園を追放となったアダムとエヴァの原罪と同時に、キリストの受難をも示すのだ。そして、この薔薇の生垣や深緑の葉の絨毯は、単に象徴的な意味を添えるだけではなく、装飾的な効果もあるのだろう。地面に敷き詰められた緑の葉の一つ一つが、植物的な特徴を捉えられ精緻に描写されている。また、左右対称に配置された支柱のある薔薇垣は、画面内を幾何学的に分割する役割もあるのだろう。そして、画面上部に下がるカーテンは玉座の天蓋をも連想させると同時に、父なる神の顕現を示す劇的な効果もあると思われる。青い服に翼の天使が左右で布地を持ち上げるこのしぐさは、神の居る天上と聖母子が座る場の間ある境界が一時的に取り払われたことを表すのかもしれない。
 ロッホナーの描く「閉ざされた庭」は、とても甘やかで美しい。植物の細部描写や聖母子や天使の磁器人形のような愛らしさ。しかし、聖母の純潔を象徴する瑞々しい緑に覆われた庭は、愛らしい幼子を守ることのできる場であるようにも見える。やがて人類の救済のために降りかかる受難という運命から、一時的にでも引き離すことができる安全な空間。疑似的な楽園のようなその美しさや優美さは、厳しい現実と苦しみに満ちた死へと流れゆく時間から切り離された場所だからこそ際立つのかもしれない。

フィリッポ・リッピ〈受胎告知〉1443-50年 ドイツ、ミュンヘン[アルテ・ピナコーク]
フィリッポ・リッピ〈受胎告知〉1443-50年 ドイツ、ミュンヘン[アルテ・ピナコーク]
サンドロ・ボッティチェリ〈聖母子と若き洗礼者聖ヨハネ〉1470-75年頃  フランス、パリ[ルーヴル美術館]
サンドロ・ボッティチェリ〈聖母子と若き洗礼者聖ヨハネ〉1470-75年頃 フランス、パリ[ルーヴル美術館]
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新刊紹介

石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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