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画家の目と絵筆を通して鮮やかによみがえる、土地の姿と営みと 第2回 時間と空間を再現する風景描写

 ヴェネツィアの外からの眺めではなく、都市の内部が舞台となって聖なる場面と結びついている絵画がある。ジェンティーレ・ベッリーニの〈サン・マルコ広場での聖十字架の聖遺物の行列〉(一四九六年)は、キリストの磔刑に用いられた十字架の破片という聖遺物の奇跡を描いたものである。この絵画は、聖十字架の聖遺物を保管する、ヴェネツィアのサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ同信会によって依頼された。
 画面内に大きく広がるのは、一四四四年四月二十五日に行われた聖遺物の行列である。前景中央、ドゥカーレ宮殿の方から出てきた同信会のメンバーは、サン・マルコ広場を列をなして進んでゆく。白い装いの同信会員が携える天蓋の下には、黄金の聖遺物容器が見えるだろう。天蓋の奥で跪く赤い服姿の男性こそが、聖十字架の奇跡に立ち会った商人、ヤーコポ・デ・サリスである。運ばれてゆく聖遺物に息子の怪我の回復を祈ったところ、彼の息子は命をとりとめたのであった。

ジェンティーレ・ベッリーニ(イタリア) 〈サン・マルコ広場での聖十字架の聖遺物の行列〉1496年 イタリア、ヴェネツィア[アカデミア美術館]
ジェンティーレ・ベッリーニ(イタリア) 〈サン・マルコ広場での聖十字架の聖遺物の行列〉1496年 イタリア、ヴェネツィア[アカデミア美術館]

 この作品は、聖遺物の奇跡とその行列の様子を視覚的な記録として留めつつ、同時にそれを所有するヴェネツィアという街の威光をも伝えるものである。だからこそ、奇跡の場面ではなく、都市のモニュメントである、黄金の彩りのあるビザンチン様式のサン・マルコ寺院と、遠近法で構成されたその広場が大きく取り上げられているのだろう。同様に、聖なる場面より都市の姿に焦点を当てたのが、カルパッチョの〈グラード総主教による悪霊に憑りつかれた男の治癒〉(一四九四年)である。画面左側の建物の二階で、キリスト教の信仰のもと、悪霊払いという奇跡の場面(1)が描かれているが、ここでもまた主眼となっているのはリアルト地区の当時の賑わいや生活の断片であった。運河にかかるリアルト橋(2)の様子や、その下を行き来するゴンドラ(3,4)など、奇跡と拮抗するように現実の存在感は大きい。

カルパッチョ(イタリア)〈グラード総主教による悪霊に憑りつかれた男の治癒〉1494年 イタリア、ヴェネツィア [アカデミア美術館]
カルパッチョ(イタリア)〈グラード総主教による悪霊に憑りつかれた男の治癒〉1494年 イタリア、ヴェネツィア [アカデミア美術館]
カナレット(イタリア)〈サン・マルコ広場のあるヴェネツィアの眺望〉1735年 アメリカ、カリフォルニア[サン・マリノ、ハンティントン・アート・コレクション]
カナレット(イタリア)〈サン・マルコ広場のあるヴェネツィアの眺望〉1735年 アメリカ、カリフォルニア[サン・マリノ、ハンティントン・アート・コレクション]
現在のヴェネツィア、サン・マルコ広場 ©istock
現在のヴェネツィア、サン・マルコ広場 ©istock

 この二枚の絵画では、都市景観はすでに単なる背景や、聖なる出来事の背後に控えた舞台装置ではない。聖性によって威光を得られた街でありながらも、同時に政治性や経済性によって現実的な顔も魅力的に見せるようになっているのだ。主題と都市が空間的に連続することによって生み出される街の姿。やがて十八世紀になると、カナレットが〈サン・マルコ広場のあるヴェネツィアの眺望〉(一七三五年)など、数多くのヴェネツィアの街の光景を描くようになる。風景画というジャンルとみなされるその作品群は、都市という空間やそこに流れる時間を切り取って再現した肖像画でもあった。

※1 人物名、絵画タイトルは『西洋美術の歴史 4ルネサンスⅠ』(中央公論新社/二〇一六年)『西洋美術の歴史 5ルネサンスⅡ』(中央公論新社/二〇一七年)を参考にしています。
※2 初期ネーデルランド絵画と初期フランドル絵画は、十五‐十六世紀のフランドル地方の画家たちによって制作された作品を表し、同じものを指しますが、文中では「初期ネーデルラント絵画」で統一しています。

編集協力/中嶋美保

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新刊紹介

石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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