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画家の目と絵筆を通して鮮やかによみがえる、土地の姿と営みと 第2回 時間と空間を再現する風景描写

 絵画の中で理想的な都市が追求され、そして誇示される。注文主以外の目にそれが晒される時、都市景観図は一種のプロパガンダ的な機能を帯びることになる。その例として、十四世紀シエナの画家アンブロージョ・ロレンツェッティの〈善政の効果としての市街および郊外の田園〉(一三三八―三九年)が挙げられるだろう。これはシエナの市庁舎であるプブリコ宮殿の「平和の間」のために制作された壁画で、〈善政の寓意〉(一三三八―四〇年)と〈悪政と戦争〉(一三三八―四〇年)と同様に寓意的な要素に満ちながらも、十四世紀前半のシエナの都市と田園風景を鮮やかに描きあげている。同時に、この壁画は、イタリア美術史における風景表現としても重要な位置づけがなされている。
〈善政の効果としての市街および郊外の田園〉は街の城壁を境に二つに分かれ、右側には田園風景(A)が、そして左側にはシエナの都市情景(B)が見られる。この街全体に建物が林立し、商人や職人、貴族の都市生活の断片がちりばめられていた。城壁近くの学校で講義が行われ、その隣の店舗では驢馬を連れた若者を相手に、靴が商われている(1)。視線を上げると、右上の建築現場で働く人々(2)が目に入るだろう。通りではタンバリンを手にする女性のもと、乙女たちが踊り、その斜め向かいや画面奥でも職人や商人が勤しむ様子が描かれている(3)。そして、左下を馬に乗って進むのは、装いから貴族の一行(4)であるのが明らかだ。壁画の人物たちの服装は、当時の流行や様々な社会階級を反映している。そして、この絵画には、シエナの重要な建物やモニュメントが取り込まれていた。例えば、画面左上の白と黒の縞模様の塔とその横の円蓋(5)は、シエナ大聖堂のものとすぐに認識できる。

アンブロージョ・ロレンツェッティ〈善政の効果としての市街および郊外の田園〉1337-39年 イタリア、シエナ [シエナ市庁舎]
アンブロージョ・ロレンツェッティ〈善政の効果としての市街および郊外の田園〉1337-39年 イタリア、シエナ [シエナ市庁舎]
アンブロージョ・ロレンツェッティ〈善政の効果としての市街および郊外の田園〉全図。城壁を境に二つに分かれ、右側に田園風景、左側にシエナの都市情景が見られる。
アンブロージョ・ロレンツェッティ〈善政の効果としての市街および郊外の田園〉全図。城壁を境に二つに分かれ、右側に田園風景、左側にシエナの都市情景が見られる。
イタリア、シエナのカンポ広場にあるシエナ市庁舎ブブリコ宮殿 ©shuttertock
イタリア、シエナのカンポ広場にあるシエナ市庁舎ブブリコ宮殿 ©shuttertock

 また、この平和で理想的なシエナの政治的理念として表されたのが、〈善政の寓意〉である。画面右側では、白と黒の衣服をまとった老人が、左右と頭上に九人の美徳の擬人像を率いて玉座に腰を下ろしている(1)。右手にしゃく、左手に盾を持つその姿は、「都市国家シエナ」の寓意像なのだ。その足元には、シエナの建国伝説を表す双子と雌の狼(2)がある。老人の頭上には、十字架を抱えた「信仰」、燃える心臓を手にした「慈愛」、虚空に浮かんだキリストの顔を仰ぐ「希望」の三つの美徳を体現した天使が舞っている。そして、左側には豪奢な長椅子にもたれる白衣の「平和」、笏と盾を手にした「剛毅」、白いヴェールを被る「賢明」、右側には剣と斬首された男の頭部を抱く「正義」、砂時計を掲げる「節制」、貨幣の入った容器と王冠を捧げ持つ「寛大」の擬人像が描かれている。つまり、シエナを体現する老人は、これら擬人像が示す美徳を兼ね備えた存在でもあった。さらに、画面左側の玉座に腰を下ろすのは、大きな天秤を見守る「正義」の寓意像(3)である。天秤の両皿には天使が載っており、正義の執行と思しき左側で、天使はひとりを斬首し、もうひとりに戴冠している。一方右皿の方では、二人の市民に指揮棒と槍、金庫が与えられている。「正義」の頭上には知恵の書を持つ「えい」が、その下にはかんなを抱えた「調和」の寓意像が描かれ、その右側にシエナの二十四人の評議員が列をなしている。

アンブロージョ・ロレンツェッティ〈善政の寓意〉1337-39年 イタリア、シエナ [シエナ市庁舎]
アンブロージョ・ロレンツェッティ〈善政の寓意〉1337-39年 イタリア、シエナ [シエナ市庁舎]

 この壁画の制作された十四世紀前半、イタリアの各都市にはすでに政治的にも経済的にも独立した国家体制が整っていた。都市政府が商業による繁栄や、様々な市民階級の豊かさを内外に知らしめるために、公的な場に飾られた絵画の果たした役割は大きかった。画家は都市の姿を描き、そして身近な出来事を正確に再現することで意味を与えてきた。シエナという都市は、地理的にイタリア北部とローマを結びつけていたために、同じくトスカーナ地方のフィレンツェと政治や商業面で競合的な関係にあった。それ故に、この壁画を通して、シエナは自らの統治を賞賛し、同時に信仰や共同体としての連帯感を強めてきたのである。

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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