よみタイ

群ようこ「今日は、これをしました」

引っ越しを控え、不用品整理をする

 しいはクーラーが嫌いだったので、極力使わないで過ごしていて、私の判断ではスイッチは入れられなかった。幸い、部屋は風通しがいいので、暑い日に風を通すためにドアを少し開けていると、ふと気がつくとしまちゃんが部屋の中に入っていた。どういうわけかこの子は、
「あら、どうしたの」
 と近寄ろうとすると、ふつうは外に出ようとするのに、家の奥へ奥へと移動していくのが面白かった。そんなときしいは、追い払うでもなく、
「何やってんのかしら」
 といった冷ややかな目で眺めていた。
 ある日、台所でやっていた用事が終わり、リビングルームに行くと、しまちゃんが侵入していて、ソファの横にいた。しいはそのときベッドルームに避難していた。
「あら、来たの?」
 と声をかけると、
「あ、あ、あ」
 とあせった様子で、ベランダのほうに行こうとするので、網戸を開けてやった。すると逃げるかと思いきや、ベランダにお座りし直して、いつものように、
「何かちょうだい」
 と催促する表情になるのだった。
 しまちゃんがソファのそばにいたのは、私が目撃した限りでは、その一回だけだったので、そのときにマーキングをしたようだ。しかししまちゃん自体からは、酸っぱい匂いがするものの、マーキングの匂いが一切しないので、わからなかった。ただいつもソファの横の床で寝ていたしいが、三か月くらいの間、そこで寝なくなっていたのも、今から思えばそのマーキングのせいかもしれない。しまちゃんも喧嘩の傷がもとでそれからしばらくして亡くなってしまったし、去年、しいも亡くなって、マーキングの跡を眺めながら、
「なるほどねえ」
 というしかなかった。
 さすがに二十七年間も住んでいると、賃貸の部屋でもいろいろな思い出が湧いてくる。よく長年住んだ持ち家から引っ越したり、解体したりした人が、感極まって涙を流す姿を見たりすることがあったが、私はそんなものなのかなと思っていた。しかし今回、引っ越しの準備をしていると、その人たちの気持ちが理解できるような気がした。もともと賃貸なので、自分の持ち物という意識はないけれど、やはり暮らした年月の分の思い出はある。特に二十二年間、しいと暮らしたことは大きかった。
 しいのお骨と写真は、当日、私が手持ちで運ぶのだけれど、たまにあちらの世界から、こちら側に遊びに来てくれたときに、ちゃんと引っ越し先に来てくれるかなあと心配になっている。ネコは家につくといわれているので、ちょっと気になる。そこで毎日、
「いい? 引っ越した後にここに来てもおかあちゃんはいないよ。ちゃんと新しいお部屋に来るんだよ。わかった?」
 と念を押しているのだが、写真のしいの顔は、生前と同じように、
「うるさいわねえ、何度もいわなくても、わかってるわよっ」
 とむくれているような気がするのだった。

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群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『散歩するネコ れんげ荘物語』『おたがいさま れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『よれよれ肉体百科』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』『きものが着たい』『たべる生活』『これで暮らす』『小福ときどき災難』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

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