よみタイ

群ようこ「今日は、これをしました」

うちのネコ、しいの旅立ちを見送る

 私の日常の時間割りはすべて彼女が握っていた。五時半から六時半の間の起床時間、夕方五時半すぎの仕事をやめる時間、風呂に入る時間は五分、九時半には、
「はい、あなたはもう寝なさい」
 と自分の寝床から起きて、私のベッドルームに入っていく。追いかけて私も部屋に入り、そこで豚毛のブラシでブラッシングをしてやり、私の、
「しいちゃん、おやすみ。今日もありがとうね」
 という言葉を聞いて、寝床に戻っていくのだった。
 元気とはいえ超高齢だったので、私は彼女が二十一歳になってから、自分が謝りたいこと、いいたいことを伝えるようにしていた。亡くなったときに、いくら声をかけてもわからないだろうし、生きているうちに謝れるところは謝り、感謝するところは伝えようと考えた。この二十二年の間、必要以上に怒ってしまったときもあったので、リンパマッサージやブラッシングをしてやっているときに、
「あのときはごめんね。しいちゃん、いやだったよね」
 と謝ると、ごろごろと喉を鳴らしながら、目をつぶっていた。
 寝るときも以前は「おやすみ」だけだったのが、「今日もありがとうね」を付け加えるようにした。これまでずっと一緒にいてくれたことの感謝を伝えたかったからだ。
 すると、
「んっ」
 と小さく鳴いて、返事をしてくれるようになったのだが、私が「ありがとう」をいうのを忘れると、自分の寝床に戻りかけの姿のまま、静かに振り返って私の顔をじっと見るようになった。
「あなた、忘れていることがあるでしょ」
 といいたげな顔なので、あっと気がついて、
「そうだったね、今日もありがとうね」
 というと、納得したように戻っていった。催促されるようになるとは思わなかった。
 今年のはじめだったが、夜、ベッドに横になりながら、飼われた動物は飼い主を選べないので、自分はいいと思っていても、向こうはそう感じていないかもしれないと考えた。ネコの場合、外と室内と自由に出入りできるのならば、飼い主が気にくわなければ別の飼い主を選べるだろうが、室内のみで飼っていると、いやだとしてもネコはそこで我慢するしかない。横になったまま心のなかで、
(しいちゃん、こんな飼い主でよかったのかな。もっと幸せになれる飼い主がいたかもしれないね。うちに来て幸せだったのかなあ)
 としいに呼びかけていたら、とことこと歩いてくる音がして、寝ているはずのしいがやってきた。そして体を起こした私の目の前にちょこんと座り、
「にゃあ」
 と明るい声で鳴いて、また戻っていった。そのときはじめて、しいと気持ちがつながったように感じた。
 水しか口にしなくなってからも、ずっと鮭となまり節は出し続けた。寝る前の「ありがとう」だけではなく、
「また明日ね、わかったね」
 を付け足すようになった。だんだん痩せてきてはいたが、十六センチほどの段差も私の補助なしで自力で動いていた。十月三十日の金曜日、しいが心配だったので、用事を繰り上げて午後二時半に家に帰ると、しいは出かけるときは寝ていたのに、寝床でお座りして出迎えてくれた。ところが夕方五時半を過ぎた頃から後ろ足が立たなくなった。朝、自力でトイレで用を足し、ついさっきまでゆっくりではあるが、すべての部屋を歩き回れたのにである。それを見て、これから介護の日々がはじまると、スーパーマーケットで見た、ペットシーツやマナーパンツを買わなくちゃいけないなと思い、病院の先生にもいろいろと聞かなくてはと覚悟した。
 

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群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『散歩するネコ れんげ荘物語』『おたがいさま れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『よれよれ肉体百科』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』『きものが着たい』『たべる生活』『これで暮らす』『小福ときどき災難』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

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