そして、言葉の影に必ずついてくるのはその時代の空気。
かつて当然のように使われていた言葉が古語となり、流行語や略語が定着することも。
言葉の変遷を辿れば、時代の流れにともなう日本人の意識の変容が見えてくる……。
近代史、古文に精通する酒井順子氏ならではの冴えわたる日本語分析。
2020.10.28
「古っ」への戦慄
言葉のあとさき 第12回

久しぶりに、鎌倉を訪れました。横須賀線に乗り入れる湘南新宿ラインが大船を過ぎると、車窓はしっとりとした景色に。円覚寺を臨む北鎌倉駅を過ぎれば、古都にやってきたという気分が、盛り上がってきます。
鎌倉駅で下車し、鶴岡八幡宮へと続く若宮大路をぶらぶらしていると、小学生の時に遠足で鎌倉に来たことを思い出しました。当時は古都の魅力など微塵もわからず、ただ皆で遠出をしたことが嬉しくてはしゃいでいたけれど、今となっては自分の古さと鎌倉の古さとがしっくりくる感じに。
そこで思い出したのは、鎌倉時代の女性が書いた日記「とはずがたり」のことでした。作者は、京都で後深草院に仕えた、二条という女性。若い頃は極度に性的にお盛んであった彼女は、お盛んすぎたせいか三十歳そこそこで出家し、性愛の世界から足抜けします。その後は、西行に憧れてこれまたお盛んに日本中を歩き続けるという、振れ幅の大きな人生を送った人です。
二条は東国への旅において鎌倉を訪れていますが、この時に鶴岡八幡宮のことを、「新八幡」と書いているのでした。八幡神は、源氏の氏神。村上源氏の出身である彼女にとって、京都の石清水八幡は何かと頼りにしている神社でした。そして鶴岡八幡宮は、京都の石清水八幡宮を勧請してできたからこその「新八幡」。
現代の関東人にとってはしっとりした古都である鎌倉も、鎌倉時代の京都人にとっては、新しい都でした。若宮大路にしても、鶴岡八幡宮は石清水八幡宮からすると若い宮であるからこそのネーミングです。
私は、新しく拓かれた街に行くと、いつも心が寒いような感覚を覚えます。駅前のペデストリアンデッキの向こうには高層マンションが建ち並ぶ……といった景色からは生活の息遣いが感じられず、「ここには住みたくない」などと思うのですが、七百年前の京都人・二条は、新しい街・鎌倉を見て、どう思ったのでしょう。何もかも新しい、そのツルツルな感じに、違和感を覚えることはなかったのか。
二条は、多少の揶揄を込めて、鶴岡八幡宮のことを「新八幡」と言ったのかもしれません。京都人としては「鎌倉なんて、元々はド田舎だったのに」と、思っていたのではないか。
新興勢力である武士が台頭し、公家は弱体化していったこの時代。公家にとって武士は、鼻持ちならない存在であったことでしょう。しかし一方には、「武士、カッコいい!」と思う人もいたはずです。優雅で平穏な時代が長く続いた世で、武士の荒々しさは、新鮮な刺激として受けとめられたのではないか。公家の女性達の中には、武士の力強さに密かに心を奪われ、優雅で知的な貴族男性が、急に軟弱で頼りなく見えるようになった人もいた気がしてなりません。
「新しさ」の勢いって、そういうものだわね。……と、私は鶴岡八幡宮の鳥居を見上げながら、思っておりました。新しい何かが登場すると、それまでは普通だったものが、急に古くてダサく感じられる。新しさはいつの時代も、人を夢中にさせるのです。