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酒井順子「言葉のあとさき」

「『気づき』をもらいました」

 何かをもらった後でお返しをするのは、もちろん日本人だけではありません。お返しをしないと、あげた側に従属することになってしまう、といった感覚は世界中に存在するようですが、しかし日本では特にその感覚が極端かつ律儀。やったりとったりが、頻繁に行われています。
 日本文化の中心地である京都では、特に贈答行為への意識が高いようです。何かをもらったなら、可及的速やかに、できればその場でお返しを渡すべきで、そのお返しを「おため」と言うのだそう。ご近所さんから何かおすそ分けなどをもらった時に、すぐに渡すことができる「おため」を常備している家庭もあるとのことなのです。
 東京においてはそれほどの強い返礼に対する強迫観念は無いものの、それでも、誰かから誕生日プレゼントをもらったらその人の誕生日もお祝いしなくてはとか、旅行のお土産をもらったら自分も次の旅行ではお土産を買ってこようとか、その程度のことは考えるもの。
 贈答は、面倒な行為です。新婚旅行に出たカップルは、お祝いしてくれた人へのお土産探しに四苦八苦するし、近所の人が煮物を入れて持ってきてくれたタッパーを空で返すわけにはいかず、「何か差し上げられるものはなかったか」と、探すことになる。
 とはいうものの贈答は日本人にとって、コミュニケーションをとる上での大切な手段でもあるのでした。バレンタインデーというイベントが外国から入ってきたならば、ホワイトデーというお返しのイベントも設定せずにはいられない我々。面倒臭くはあるものの、チョコレートやお菓子をやりとりするのはどこか嬉しく、コミュニケーションが活性化するのは確かです。
 このように贈答行為に特別な意味を見出している我々であるからこそ、震災という非常時には、言葉の上で、感情のやりとりをせずにいられなかったのでしょう。ボランティアなどで直接被災地の力になることができなかった人も、せめて勇気や元気をもたらしたくなったし、それを受け取った人は謝意を返す‥‥という双方向のやりとりをすることによって、人々は心の安定を得ようとしたのではないか。
 その時の感覚が、日本人の中には今も残り続けているように私は思います。「気づく」という動詞を「気づき」と名詞化するという動きの背景にあるのも、その辺の感覚なのではないでしょうか。
 すなわち、
「‥ということに私は気づいた」
 だと、気づいたのは自分自身であり、そこからの広がりはありません。が、
「‥という気づきをもらった」
 の場合は、なにせ「もらった」わけですから相手が存在することになり、相手への謝意が発生しましょうし、「いつか何らかのお返しをしたいものだ」との感覚も発生しましょう。動詞を名詞化することによって、「やりとり」が発展する予感が、漂うのです。
 そこには、日本古来の「おかげさま思想」と、それが強まって発生した最近の感謝ブームも関係しているように思います。我々の中にはもともと、「手柄を自分だけのものにしてはならない」という感覚があります。成功や幸福を手にしても、それは自分の力によるものではなく、家族や友人知人、そして神様仏様のおかげだと思うようにと、徹底して指導がなされているのです。
 最近はとみにその傾向が強まっており、感謝ブームの様相を呈しているというのは、以前も書いた通り。特に若者は小さい頃から感謝に溢れた世に生きていますので、誰から言われずとも、隙あらば感謝しようと狙っています。

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酒井順子

さかい・じゅんこ●1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。立教大学社会学部観光学科卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『下に見る人』『ユーミンの罪』『地震と独身』『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『次の人、どうぞ!』『男尊女子』『家族終了』など多数。

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