2022.11.4
子は、親に左右される人生を脱出できるか 第5回 ”親ガチャ”を嘆く若者の問題意識
また文筆一家の二代目・幸田文は、十六歳の時から父親の命によって、炊事の一切を担わされていました。父の幸田露伴が早くに妻を亡くし、再婚したものの再婚相手が家事を得手としなかったため、文は露伴から厳しく家事を仕込まれていたのです。
ガス台も冷蔵庫も無い時代、学校に通いながら炊事をし、少しでも手を抜いたり、しそんじたりすると父から厳しく叱責される。……という文も、今で言うならヤングケアラーですし、露伴の行為は虐待と言われかねません。
しかし後世、露伴の厳しい家事教育がなかったら幸田文の文学は生まれなかったであろう、とも言われるわけで、その教育は「虐待」ではなく「薫陶」ということになっているのでした。
明治三十七年生まれの幸田文は、父の厳しい“薫陶”をつらく感じることはあったけれど、その理不尽さに耐え続けました。娘に対する親の態度がどれほど厳しくても、それは「しつけ」であって「虐待」とはされない世の中だったのです。
また昭和四年生まれの向田邦子は、父の暴力について、作品に記しています。向田の父は癇癪もちであり、機嫌が悪くなると、妻子に対して暴力をふるいました。そこでは「家庭内暴力」「殴る」と言った言葉ではなく「手を上げる」という婉曲表現が使用されていますが、こちらもまた、今風の言葉に置き換えれば「DV」ということになりましょう。
しかし向田邦子もまた、父のDVから逃れようとしたり、その苦悩を世に訴えたわけではありません。幸田文と同様に、父の暴君ぶりを情で理解して自身のこやしとし、後世に残る作品として結実させたのです。
それは、戦前に生を受けた女性だからこその精神なのだと思います。今を生きる若者はすでに、親からの暴力や暴言の底に、親の愛情や悲しみを見出す視力は持っていません。また虐待や暴力を自身の中で発酵させて、別の形で結実させる消化力も、持っていません。幸田文や向田邦子の頃から時は流れて、家族の中であっても暴力は暴力、ということになったのであり、その手の親の元に育った子は、「親ガチャ外れた」とアピールすることで、世間に助けを求めることができるようになったのです。