2023.2.19
私はもう「女じゃない」のか……閉経疑惑でふと思い立った「女風記念日」
女性たちは何を求めて女風を利用し、そこから何を得たのか――。
『ルポ 女性用風俗』の著書もあるノンフィクション作家の菅野久美子さんが、現代社会をサバイブする女性たちの心と体の本音に迫るルポ連載。
前回まで、さまざまな女風ユーザーの方のお話を伺ってきました。
連載を終えるにあたり、著者の菅野さん自身も、ある心境から女風を体験してみようと思い立ち……。
生理が上がってしまったかもしれない――。月のものが、来なくなって早数か月が経つ。気がつけば、40歳。うちは閉経が人よりもかなり早い家系だと、母に聞かされてきた。妊娠の心当たりは全くない。だから心の中ではそれがいつ来るかと、覚悟はしていたと思う。 カウントダウンが始まっていたのは、内心わかっていたはずだ。
思えば真っ白のパンツが血で染まり、下腹部にキリキリとした鈍痛を感じたのは、忘れもしない小学6年の秋だった 。あっという間に時は過ぎ今まで私の体は休む間もなく、女性としての機能を果たし続けてきたことになる。これまでの人生で何度、あの痛みや不快感、精神的不調を心底呪ったことだろう。“あの日”から解放されたら、どんなに楽か。最近まで、私はそう思っていた。
私の周りの閉経を迎えた女性たちは晴れやかな表情で、「閉経してすごく楽になった、解放された」と口を揃える。だから大丈夫、だと。しかし最近は、そんな言葉に複雑な思いを抱いていた。いざその時が来たら、果たして私は本当にあっけらかんと笑えるだろうか、と。
それは見事に的中した。いざ生理が来なくなると私を襲ったのは、喪失感だった。自分の体の一部を失ったかのような、心の痛みなのだ。一か月を通して心と体に起こるダイナミックな変化――、それがもう二度と訪れないことに、言いようもない切なさを感じたのだ。それは俗にいう「女として終わってしまった」感覚なのかもしれない。
こうして考えてみると、人間はつくづく矛盾する感情を抱えた生き物だなと思う。「ある」時もつらいのに「無くなっても」つらい。その割り切れなさの狭間に立たされた私の心は、引き裂かれていた。
セックスのことを考えるだけで憂鬱に
そんな心身ともにどん底の中、この連載はたまたま終わりを迎えようとしていた。連載の最終回は、私自身の女風体験で締めよう――、ずっとそう決めていた。女風の本を出版している私は、数多くのセラピストを取材してきたが、自分自身が当事者として利用する機会がないまま、ずるずるときていた。良い機会だから最後は自身の体験で、終わりたい。この連載のタイトルは、「私たちは癒されたい」だ。ユーザーさんたちは女風を通じて、心身ともに大きな変化を経験し、時には目を見張るような幸せを手にしている。
これまでご紹介した通り、女風の使い方は様々だ。プロの技によってひたすらイキ狂い、女性として性の神髄を知ることもできるし、アイドルのようなルックスのイケメンと高級レストランでデートすることもできる、はたまたアブノーマルなSMプレイにチャレンジすることだって可能だ。これまでの取材を通して、女風の可能性は無限にあることはわかっている。しかし、「女」である理不尽さに傷心していた私は、セックスのことを考えるだけで憂鬱な気分になっていた。
私が女風でやりたいことは、なんだろうか。私の頭に漠然と浮かんだのは、「高校生カップルのようなデートがしたい!」である。考えてみれば、私の青春はまさに暗黒時代だった。九州のド田舎に育ち、スクールカースト最底辺で、おまけにいじめに遭い、非モテ街道まっしぐら。そんな私にとって、高校生カップルはキラキラと輝いていて、羨望の的だったのだ。もし可能ならば、あの青春を取り戻したい。男の子と池でボートにも乗りたいし、公園を散歩したいし、ゲーセンにも行きたいし、原宿を歩きながら、クレープを食べたい。あの時、経験できなかった色々な感情を取り戻すこと。それは私の心が嘘偽りなく今、「やりたいこと」だ。
あまりに乙女チックな欲望に、我ながら思わずクラクラしてしまう。罪悪感すら感じるほどだ。この歳になって、果たしてそんな淡い願望を抱いていいのだろうか。むしろスポーツのような性欲解消に勤しむほうが、羞恥心は断然少ない気がする。
しかしそんな弱気な私を後押ししてくれた人たちがいた。それは取材で知り合った大先輩の女風ユーザーさんや友人たちである。いいじゃない、全然いいじゃない、やってみればいいじゃない――。彼女たちは私の願望を聞くと口々にそう言い、絶対行動を起こすべきだと諭してくれた。中にはお勧めのセラピストを紹介すると言ってくれた人もいる。だから私は勇気を振り絞って、その一歩を踏み出すことができた。