2022.5.22
ブラック企業の人間関係に疲れ果て……40代女性が女性用風俗にすがった切実な理由
本当の自分でいられる場所を求めて
里美さんの印象に残っているのは、広い浴槽で泡まみれになって、子どもみたいにはしゃいだことだ。里美さんはまるで、その瞬間を反芻するかのように、遠くを見つめる。
「浴室で全裸になって童心に還ってキャーキャー騒いだんです。泡風呂はすごく楽しかったですよ。ジェットバスで下からも泡が出てくるし、家ではそんなことできないですしね。私があまりにはしゃぎすぎるので、私が足を滑らせて転ばないように、優しく父親のように見守ってくれてましたね。危なっかしい子どもを見つめる目で、『親』の眼差しそのものだったと思います」
その後、セラピストは王道である性感の「お仕事」を全うしようとした。里美さんは、ベッドに誘導され性器を舐められたりと、一連の性的サービスを受けた。しかしその記憶は正直あまりない。それよりも鮮明に覚えているのは、泡風呂に二人で入ったあの瞬間、心の底から嬉しかったという記憶だ。セラピストの前では裸になっても、恥ずかしさや照れは不思議と湧いてこなかった。
「ほら、普通の人だとたとえ子どもみたいにはしゃいだとしても、最後は必死に大人に戻そうとするじゃないですか。大人になれって。だけどセラピストさんはずっと子どものままでいさせてくれる。そこが決定的に違うと思いますね。だからやっぱり『お父さん』。すごく大切な存在なんです」
そう言うと、里美さんはコーヒーを手に取る。子どものままでいさせてくれるという里美さんの言葉が私の心にじんと響いた。私は里美さんが体験した、ホテルの浴室での情景をふと思い浮かべる。
ラブホテルの巨大なジャグジーで、無邪気な子どものように泡まみれになって笑い合っている二人――。
考えてみれば大人になるとそんな「子どもに戻れる」機会はめっきりと減る。私たちは大人になって自由を手に入れたと思いきや、社会的責任でがんじがらめに縛られていたりする。だからこそ公園で無邪気に遊んでいる子どもたちを見ると、身軽だったあの頃に戻りたいと密かに郷愁を感じたりもする。人が童心に還れる瞬間は、大人になれば逆にかけがえのない輝きを帯びるのだろう。
「私の女風の使い方として、性感ではない部分にお金の価値があると思ってるんです。だから性感がなくてもいいってセラピストさんには話すんです。男性だからか、なかなか納得してもらえないんですけどね。普通は、性的欲求を解消するために行ってる人が多いと思うんですけど、私は別にそこを解消してほしいと思ってないんですよ」
女風は、「本当の自分でいられる」ことを求めて利用するという女性が多い。もちろんある人にとっては妻や母という属性から解放され、「女」に戻り性欲をむき出しにすることなのだろう。しかし他の誰かにとっては、里美さんのように無心に「子ども」の自分に戻ることだったりもするかもしれない。それがどんな形であれ、飾らなくていい素の自分へと還れる瞬間にこそ意味があるのだと私は感じる。
しかし、なぜ女性たちは「素」の自分に戻りたいとここまで切実に願うのだろう。
昭和60年5月に男女雇用機会均等法が成立し、平成27年には30年が経過した。令和という時代に突入してから、女性の社会進出は益々進んだように見える。しかし女性たちを取り巻くのは、一見何も遮るものがないように見えて、実は無数の透明な茨が行く手を阻んでくるような日常だ。かつて日本社会に根付いていた男尊女卑文化はまだまだ改善されているとは言い難い。
「私の勤めていた会社って、ブラックだけじゃなくて昔ながらの男尊女卑の会社なんです。同じ仕事をしているのに女性は男性よりも二百万円以上年収が低いんです。どんなに体を壊すほど働いても、男性と同じ給与水準になることはないんですよ」
不平等な給与体系が亡霊のように残る一方で、男性と同じハードワークが求められる。そこに中間管理職で上下の板挟みとなる辛さが追い打ちをかける。そんなギリギリの状況でサバイブしていると、酸素の少ない水槽に入れられた魚のようにアップアップして苦しくなり、身も心もすり減っていく。里美さんもまた、そんな矛盾を感じながら無言で受け入れている女性の一人なのだった。
私は里美さんが語る「お父さん」という言葉の意味が、ようやくわかった気がする。
唯一そんな生きづらい社会から「逃げてもいい」と諭し、時には子供に還ることを許してくれるセラピストは、確かに父親という表現が一番しっくりくる。
(後編に続く)