よみタイ

あなたはこれからうちの子になるんやし 第1回 義母のことが怖かった

結婚? そんなもの焦ってしなくていいわよ

 一方、私の母は、あまり多くを語らない。もちろん、親しい友人や親戚とは明るく会話をするが、誰よりも自分が話をするタイプではない。どちらかと言えば、聞き役が得意な人だった。夫は母のそんなところが一番好きだったと言う。母は聞き役に徹しながら、話を自分なりに処理して、その後の付き合いをしていくようなところがあった。父を亡くしてからというもの、厳格だった父からの精神的重圧から解放され、母は楽しそうだった。主婦というよろいを完全に脱ぎ去り、一人の女性として生きていた。家庭も、子どもも、しがらみも、当時の彼女にはなんの意味もなかっただろう。そんな彼女と、夫の両親を会わせなければならない。
 結婚? そんなもの、焦ってしなくていいわよと、電話口で母は言った。
「今すぐに結婚する必要ないわよ。あなた、まだ三十にもなっていないじゃない」と、母は祝福の言葉よりも先にそう言った。「だってあなた、まだ二十八でしょ? また外国にでも行って、勉強したらいいじゃない。なんでそんなに急いで結婚することになったの? まだまだ先でいいってこの前も言っていたじゃない? あちらのご両親? ああ、なるほどね……」と母は、実家に夫の両親を連れて行かなければならなくなったと打ち明けると、そう言って少し笑った。
「そんな厳しい人で、あなた、だいじょうぶ? あなたはすべてを言わないから相手もわからないだろうけど、気をつけたほうがいいわよ。一度嫌だと思ってしまったら最後、あなたはとことん嫌になる子だから。ぎりぎりまで我慢して、爆発して、そして決して許さない。そういうところ、パパに似てる。自分でもわかるでしょ? 親戚付き合いとかできるの? こっちはパパも死んじゃってるし、兄ちゃんだっているし……」
 母は兄の存在を心配しているようだった。「でも、兄ちゃんに内緒にはできないしなあ……」
 私の五つ上の兄は、当時、母と祖母と一緒に実家に住んでいた。彼がその時仕事をしていたのか、それとも母に頼って暮らしていたのかはわからない。ただ彼が、私の結婚話に大興奮して、喜びまくってとんでもない大騒ぎだということは聞いていた。
「兄ちゃんに会わせたらダメなんじゃないの、それは」と私は暗い声で言った。兄はとにかく、当時の私と母の悩みの種だった。悪い人ではないのだが、定職につかず、ついたとしてもすぐに喧嘩をして辞めてしまい、結局実家に入り浸る。結婚はしていたが、家庭がうまくいっているのか、そうでないのかもよくわからない。いつも、大きな体を揺らし、肩で風を切るようにして歩いていた。神出鬼没とは兄のような人のことを言うのだろうと、いつも思っていた。
「兄ちゃんのことだから何やるかわかんないよ。派手なスーツとか着て来ちゃったり、髪の毛染めて来たりしてさ」と私が言うと、母は笑って「まあでも、あの子もうれしいんだよ。妹が結婚するかもしれないってなったんだから」と言った。私はため息をつきながら、「とにかく、ちょっといろいろあって、連れて行くことになったから。申し訳ないけど適当に準備しといて」と母に伝えるしかなかった。
 泣くんだよなあ、あの人。兄を思い出して考えた。涙もろくて、感激屋で、声が大きくて、空回りして、困って、笑って、どうしようもなくなって、めちゃくちゃにして逃げて行くんだよ。あの兄を見たら、義父母はどう思うだろう。兄の姿を見て、チンピラだとでも思うかもしれない。
 父がいたらなんと言うだろう。反対しただろうか。あの激しい性格だったら、一悶着あったかもしれないと少し愉快な気持ちになった。

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村井理子

1970年、静岡県生まれ。翻訳家、エッセイスト。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』『ハリー、大きな幸せ』『家族』『はやく一人になりたい!』『村井さんちの生活』 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』『ブッシュ妄言録』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『ふたご母戦記』など。主な訳書に『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖』『エデュケーション』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』『消えた冒険家』『射精責任』など。

X:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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