2021.11.28
心に残る、食べられなかったジョージア料理
「よくここに泊まってますね。すごいでしょ、ここ」
彼は言った。
「うん……、私の部屋、ちょっとかび臭いかも」
「そうなんですよね。だけどここがいちばん安いからなあ」
どうやら彼も、経済的な理由でこの宿を選んだらしかった。このとき、そんなに長く会話をしたわけではない。というのも私は半時間に一度はトイレに通う状態だったし、そもそも長話できるほど体力も気力もなかった。だが、なぜ彼がここにいるのかはとても知りたかった。
「サッカーをしているんです」
彼は言った。ジョージアのプロチームに所属しているということだった。スポーツ全般に疎い私は、ジョージアにサッカーチームがあることも知らなかったし、この国がサッカーにどれくらい力を入れているのかも知らない。けれども、バックパッカーかな、という予想が裏切られたのが面白く、嬉しかった。
「どうしてもサッカーをして生きていきたくて。小さい頃からサッカーが大好きで、それ以外してこなかったし、したくないし」
サッカーのことはわからなくても、彼の気持は切実にわかる。私も同じようなものだからだ。小さい頃から書くことが大好きで、実際、それ以外してこなかった。そして、そうやって生きるためなら、多少の苦労や貧乏もどうでもよかった。
だから彼にはとても共感した。しかしそれをうまく表せるほど身体が元気ではなかったので、彼に伝わったかどうかはわからない。もっと話が聞きたいから数日後に夕食を一緒にとろう、と私は提案した。今日はもう休むけど、と。彼は「ぜひそうしましょう」と笑顔になった。
しかし、残念ながら、その機会は訪れなかった。私の体調が悪すぎたからだ。矛盾しているように思われるかもしれないが、いちばん心に残っている食事は、どうにかひとつだけ食べたヒンカリではなく、サッカー選手の彼との、食べられなかったジョージア料理だ。
今、彼がどうしているのか、私は知らない。あれから数年が経ったけれど、いまもどこかでサッカーをして生きていてほしい。好きなことをするためだけに生きてみるやりかたを、貫いていてくれたらな、と思う。
濱野ちひろさんの「一期一宴」は不定期連載。次回は、1月下旬ころ配信予定です。お楽しみに。