2021.7.2
ブリュッセルのミュージシャンの手作りオープンサンド
ダンが起きたあとの雑談で、私は外国語の難しさについて話した。私は幼少期にブリュッセルに住んでいたことがあり、現地の小学校に通っていたので、当時はフランス語で意思疎通できていた。しかし今ではすっかり忘れ、多少は読むことはできても、話すことはほぼできない。英語圏への留学経験もないので、一般的な英語力で、生活には支障はないものの、やっぱり不都合を感じる。
「特に、あなたといると悔しくてたまらない」
私が言うと、ダンはびっくりした顔で、なんで、と聞いた。
「あなたの面白いジョークがときどきわからないから。それに、わかっても笑うことしかできなくて、うまく切り返せないから。日本だったら私はたくさん人を笑わせるんだよ!」
後半はちょっと大げさだったかもしれないが、私は、ダンのブリティッシュジョーク、それも一層秀逸なはずのジョークほど、わかりきれずに逃してしまうのを、つくづく悲しいと思っていた。当意即妙な切り返しができたら、きっともっと楽しくなるのに、と。するとダンは頷いて言った。
「僕も同じ問題を抱えているよ」
彼はブリュセルに暮らしてもう長く、フランス語はもちろんペラペラだ。だが、それでもユーモアの部分で、伝わりきらないと感じることもしばしばあるのだという。
それでも一度か二度は、私はダンを笑わせることはできた。彼はポーカーフェイスで会話を進めるタイプなのに、私の言ったことに思わず噴き出した瞬間があった。とはいえ、そのとき私は笑わせようと狙っていったわけではなかったので、ジョークが成功したわけではない。
ダンに会って、昼寝したり音楽を聴いたり、手作りの料理を食べたりする数日を過ごすと、私は元気になる。語学力のなさを嘆くようになると、すっかり復活してきた証拠だ。そして私は再びドイツへと戻り、たまにいかめしい気持ちになりながら、調査を続行するのだった。このときも、翌朝の電車で私はダンの家を去り、ドイツの片田舎の調査地へ直行した。お別れの直前に、ピクニックで使ったナイフを、「ちょうだい」とねだった。「ちょうどなくて」と、適当に理由を言った。本心では、ダンのナイフをお守りにしたかったのだった。ダンは快く、そのナイフとりんご、それからサンドイッチを渡してくれた。「なんだか、きみの親になったような気がするんだけど」とダンは言った。
これまでにダンは一体何皿私のために料理をしてくれたのだろう。すべての食事を記録しておくべきだった。もしかしたら、二十皿くらいにはなるのかもしれない。必ず恩返しするつもりだが、それには彼が来日してくれなくてはならないので、きっとまだ先になってしまうだろう。けれども、死ぬまでには、間違いなく彼には大ごちそうをしなければ。
ミスター・ダイアゴナル&ザ・ブラック・ライト・オーケストラは、残念ながら現在は活動休止中だが、メンバーたちは形を変えつつ音楽活動を続けている。ダンはミスター・ダイアゴナル名義ではなく、いまは主に本名のDan Barbenelで楽曲を発表している。彼の音楽には、そのときの人生観が表れている。新曲を聴かせてもらうたびに、私は「最近はこんな気持ちなのかな」と想像するものの、それをうまく、ユーモアを交えて表現できないから、直接尋ねたりはせずに、心の中で何度も味わい、話す代わりに横で昼寝したりして、ダンと数日過ごす。
考えてみれば、言葉で一部を切り取ることなく、そうやってただ一緒に過ごせることが、本当はいちばん幸せなのかもしれないと思う。
濱野ちひろさんの「一期一宴」は不定期連載。次回は、8月上旬ころ配信予定です。お楽しみに。