2021.1.1
12年の年月を経て味わう親友のドリップコーヒー
甲府にて、早朝に目が覚めると私は酷い二日酔いだった。短い時間に何度もトイレに通ったが、身体の重さは変わらない。昨晩の大騒ぎから一転、無言で二日酔いに苦しむ私を助手席に乗せ、「大丈夫かあ」と言いながら、弓太は西沢渓谷に向かった。大丈夫ではないので一度は車を止めてトイレに行ったが、渓谷歩きを諦めるという選択肢は私にはなかった。
秋になりかける時期の、素晴らしい日だった。木々が風に揺れて葉が音を立てる様子や、陽光を受けてきらめきながら流れる透明な水の音、足下の砂や木の葉の感触など、友人との久々の再会を描くのにこれほどふさわしい景色はなかろう。西沢渓谷は美しかった。たったひとつの問題は、それを描きとる役割を任じられているはずの私に、景色を堪能する余裕がまるでないことだった。お酒に甘えて私はよく失敗をし、このように取り返しがつかない。
口数の少ないへろへろの私と歩調を合わせていた弓太は、いったん休もうと言って、川辺の岩に腰掛けた。彼はおもむろにリュックからバーナーなどの道具を取り出した。「え、何作るの?」と聞くと、「コーヒー」と返ってきた。用意していた水をバーナーで沸騰させ、コーヒーをペーパードリップするという。なんて優雅なのだろう! 私はこのとき、初めて12年の重みを感じた。私たちはかつて貧乏学生で、山でコーヒーを淹れようという趣味の心をたとえ持っていたとしても、そのような贅沢を叶えることはなかった。12年が経って弓太はしっかり財力をつけ、山でしか使えないような道具まで持っている。つまり大人だ。弓太はコーヒーをたっぷり時間をかけて淹れ、小さいカップで私にくれた。得意げだった。私はそれを一口すすり、唸った。二日酔いに効いたのである。微笑むとも微笑まないともつかない弓太の表情は、満足感を表していた。私はまるで「大人ごっこ」をしているような気持ちになった。中身はやっぱり何も変わっていない。そう思うと、私も満たされてきた。
「男女の友情は成立するか?」というような問題設定が、少なくとも私が十代や二十代のころ、つまり1990年代から2000年代にかけては雑誌の特集などでなされていた。あれから二十年ほど経過した現在、性別に縛られるおかしさに多くの人々が気づき始め、性差別的な考えを否定する態度が浸透してきたのを感じる。いまとなっては、友情に性差が関わるなんて、古びた感覚に思える。しかし、残念ながらこの問題が完全に過去のものとなってくれたとはまだ言えなさそうだ。というのも、念のためにと検索してみたら、男女の友情の難しさについての記事が2020年付けでいくつも公開されているのが確認できたからだ。
どうして人は、性差があれば友情が築きにくいと思ってしまうのだろう。相手を人間として大切に思う気持ちに、自分や相手の性別、あるいは性的指向が影響するほうが不自然だろう。また、性差だけでなく年齢差や、上司と部下といった役割の差、既婚や未婚といった違いも、本来は友情になにも影響しないはずだ。
私が12年ぶりに弓太に出会って驚いたのは、友情には長い空白期間さえ取るに足らない、ということではなかった。私たちは、それまで言わなかったけれども、お互いに親友だと、長らく会ってもいなかったのに感じていたのである。弓太が不意に、「濱野は親友だからな〜」と、お昼を過ぎた山道で言ったときに、それがわかった。例によって前後の文脈は忘れているのだが、私もまったく同感だった。じゃあ12年もおろそかにするなよ、放っておくなよ、と人は言うかもしれないが、私たちはもしもあのときに再会せず、いまだに離れていたとしても、やはり親友だと思い続けているだろう。そういう気持ちの柔らかさが、たぶん同じなのだ。
時間も、距離も、性別も、友情には関係がない。自分が心地よいときには相手も心地よいといつも疑ってこなかったから、いろいろな差を超えられてきたのではないかと思う。心地よく相手を手放している間は、それでいいのだ。私たちは辛いことも楽しいことも、同じように報告し合う。二日酔いで無言になっても、気兼ねがない。心地よさに自信があるからだ。そして、私たちのいちばんの特徴である忘れっぽさは、その心地よさを支えているのだろう。延々話せると安心しているからこそ、忘れてしまう。忘れてもいいということ、忘れたとしても関係は変わらないということを確信している。たぶん、揃ってボケ老人になっても、私たちは笑いながらコーヒーを飲んでいるだろう。毎日、同じような話をして。
濱野ちひろさんの「一期一宴」は隔週連載。次回は、1/15(金)配信予定です。お楽しみに。