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「一体、誰の子どもを妊娠した?」理想の妻の恐ろしい二面性(第21話 妻:麻美)

「理想の妻」の恐ろしい二面性

――1年後――

娘の花蓮の哺乳瓶の煮沸消毒をしながら、麻美は小さく息を吐いた。

動物の小さな柄のついた哺乳瓶。ただ眺めているだけで愛おしい。すぐ隣の寝室で眠る愛娘の存在を思い出し、つい笑みがこぼれてしまう。

疲れ切った身体に鞭を打ち、散らかったキッチンを片付け始める。

生後5ヶ月になる娘は最近夜になると酷く愚図り、寝かしつけに1時間以上かかることも多い。育児が大変とは散々聞いていたし、仕方のないことだとは分かっている。けれど「赤ん坊」という理不尽な存在には、感動的な出産の直後から振り回されっぱなしだ。

それは、我が子への愛情とはまったく別のものだった。

不妊治療までして授かった念願の娘から与えられる疲労を、日々なんとか乗り越えることで精一杯だ。

「あれ、夜もミルクにしたの?」

気づくと、背後に帰宅した康介が立っていた。

「うん、もう卒乳するの。もうすぐ保育園も始まるし」

「ふぅん……でも、母乳の方が本当は良いんじゃないの? 保育園だって、そんなに急がなくても。シッターさんだっているし、店だって麻美がいなくても上手くいって……」

「大丈夫よ。もう申し込みも済ませたし。こうちゃんは心配しないで」

――なら、あなたが母乳を出したら?

とは言わずに、麻美はニッコリと微笑んで夫の言葉を制した。

康介は、育児に協力的な夫だと思う。ミルクやおむつ替えはもちろん、数時間なら彼に預けて外出することもできる。シッターを雇うことに文句も言わない。何より、娘には真っ当な父性愛も持っているようだった。

「それより、遅くまでお疲れさま。ご飯、食べるでしょ?」

「ああ」

けれど、母親には到底及ばない。夫に娘を預けたわずかな時間のあいだに、麻美が仕事をしていようと、美容院にいようと、「カレンの替えの服が見つからない」というだけで何度も電話を鳴らしたりする。

乳腺炎で酷い目にあった麻美の身体を気にすることなく母乳を勧める厚かましさも無自覚だ。

無理に外に預けず、幼稚園までは母親と一緒にいた方がいいんじゃないか。YouTubeなんか見せないで絵本を読んであげた方がいい……など、母親の負担などお構いなしに勝手な自論を安易に口にすることも多い。

「はい、どうぞ」

「やっぱり、麻美のメシはいいなぁ」

近所の割烹屋でテイクアウトしたブリ大根を口に含みながら、康介は満足そうだ。

「それにしても……今日も新しい秘書から褒められたよ。素晴らしい奥さんですね、って」

「……そうなの?」

「物凄い美人で、仕事も成功してて、可愛い子どももいる……で、夫に小言も言わずに応援する。まさに理想の妻の条件をすべて満たしてるって絶賛してた」

グラスに注いでやったビールを一気に飲んだせいか、夫は顔を赤くして目尻を下げている。

「褒めすぎだけど……うれしい。その秘書さんにお礼伝えてね」

穏やかに答えながら、夫が馬鹿な男で本当に良かったと感謝した。

この理想の妻の条件とやらは、夫に失望を繰り返し、そして見切りをつけて自分の人生を歩み始めた女の特徴そのものだ。

けれど少なくとも今の時点で、離婚はしないと麻美は決めている。

安定期に入ったとき、麻美は思い切って妊娠報告と同時に不妊治療の経験をSNSで公開した。するとどうだろう。驚くほどの共感や同情票が集まり、麻美の地位はさらに高まったのだ。

今、麻美の会社はエステの売上も然り、プロデュースをした妊活サプリが飛ぶように売れている。

この環境をわざわざ手放す意味はない。

「麻美、いつもありがとう」

「ううん。明日はお店に行かなきゃいけないから、カレンちゃん、よろしくね」

麻美は夫に念を押すと、静かにスマホを見やる。

妊娠中、麻美は母親という生き物に幻想を抱いていた。

圧倒的な愛情を注げる我が子を産み落とせば、自分も同じように「母親」という神々しい生き物に生まれ変われるのではないかと。

自分より子どもが大事で、子どもの幸せが自分の幸せ。

きっと店の売り上げも、フォロワーもコメントの数もインプレッションもどうでも良くなる。そんな自分をどこかで期待していた。

自分では制御不能の欲望が出産と共に消えてなくなれば、どんなに楽に生きられるか。

『晋也くん、久しぶりに会えるの楽しみにしてるね』

けれど現実は違った。

いくら可愛くても、娘は自分とは違う身体と人生を持った生き物で、麻美の欲望が消えることはなかった。

夫ではない男に会うために、麻美は母乳を中断し、育児の合間に体型を戻すべくエステサロンに通い詰めた。この気狂いな女の実情が世間に知れたら大炎上だろう。

あの、瑠璃子という女。彼女も怒ってしまうだろうか。

嫉妬に駆られ理性を失った、素直で可愛らしい、健全な女だった。あんな風に一途に既婚男を追えるなんて羨ましいとすら思う。

けれど一度不良の楽しさを知ってしまったら、月並みな幸せでは満たされない。枠にはまった真面目な生活に戻ることは難しいのだ。

欲望が消えなければ、ただそれに忠実に生きるしかない。

麻美はそう開き直っていた。

(文/山本理沙)

※次回(夫:康介side)は11月20日(土)公開予定です

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山本理沙

やまもと・りさ●84年 東京都生まれ。日本女子大学文学部卒卒業後、外資系航空会社客室乗務員、金融機関・コンサルティングファームの秘書業務を経てフリーランスへ。
2015年〜2019年に東京カレンダーWEBにて『東京婚活事情』『結婚願望のない男』『東京ホテル・ストーリー』など多数執筆したのち、2020年10月講談社文庫より初書籍『不機嫌な婚活』を出版。よみタイで好評連載中の漫画『恋と友情のあいだで』(里奈Ver.)共著原作者。『不良夫婦』では(妻side)を執筆。

Instagram●Lisa_fluffy
Twitter●山本理沙/WEB作家




安本由佳

やすもと・ゆか●81年 奈良県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、化粧品会社広報、損害保険会社IT部門勤務を経てフリーランスへ。
2016年〜2020年1月 東京カレンダーWEBにて『二子玉川の妻たちは』『私、港区女子になれない』など多数の連載を執筆したのち、2020年10月講談社文庫より初書籍『不機嫌な婚活』を出版。よみタイで好評連載中の漫画『恋と友情のあいだで』(廉Ver.)の共著原作者。『不良夫婦』では(夫side)を執筆。

オフィシャルサイト●安本由佳
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