2021.8.14
「子どもは作らないんですか?」 妻を襲うSNSの刃に、“ママ”との格差…逃れられない女の苦しみ(第15話 妻:麻美)
「働く必要なんてないのに、偉いわ」
その晩、麻美は久しぶりに深酒をして帰宅した。
夕方から晋也と落ち合い、店に合いそうな家具選びに付き合ってもらった。そして欲望に流されるまま食事と情事を済ませ、自宅のマンションに戻ったのは0時近く。
最近は夜遊びを控えていたものの、今は康介の小言は聞きたくなかったし、今朝のインスタグラムのコメントがずっと心に引っかかっている。
ふらつく足でロビーを横切ろうとしたとき、深夜の静まり返った広間のソファの脇に佇む女の姿が目に入った。
「あ……」
彼女が同じマンションに住む妻友の友里恵であると認識するまでに、少し時間がかかった。
ラフな部屋着に、おそらくノーメイクで眼鏡をかけた友里恵は、普段ランチで顔を合わせる姿とまるで印象が違ったのだ。
さらに彼女は小さな息子を抱っこ紐でかかえ、ゆらゆらと身体を揺らしている。
二人の女はお互いの存在に気づいてしまったことを後悔するように、遠慮がちに笑顔を交わした。
「……だらしない格好で恥ずかしいわ。息子の夜泣きが止まなくて……。気分転換に外の空気を吸ってたの」
「そ、そうなんだ。大変ね」
抱っこ紐の中の赤ん坊は落ち着いているように見えたが、麻美の顔をじっと見つめると、顔を歪め「ふぇぇ」と泣き始めてしまった。
「よしよし、いい子、大丈夫よー。ねんね、ねんね〜」
友里恵は再び身体を揺らし、我が子をなだめる。
「ごめんね、最近人見知りが激しくて。慣れない人に会うとすぐ泣いちゃうの」
彼女はそう言うと、眉間に皺を寄せて微笑んだ。明らかに疲れているにもかかわらず、眼鏡越しのその瞳はやけに清らかで、麻美は思わず口を噤む。
「麻美さんは……お食事でもしてきたの?」
友里恵に問われ、我に返る。
一体自分は、この母親の目にどう映っているのだろうか。
“だらしない”というならば、深夜に酔った姿で帰宅した麻美の方である。晋也の部屋で確認は済ませてはいたが、身なりが乱れていないか焦った。
「そ、そうなの。会食があって、少し長引いちゃって……」
「会食?」
もちろん、つい先ほどまで夫以外の男の部屋にいたなんて正直に答えられるわけがない。
麻美は嘘と事実を織り交ぜながら、最近本格的に仕事を始め、以前より忙しく過ごしていることを説明した。
「そうなんだ。開業なんて大変そう……。麻美さん、働く必要なんてないのに。偉いわ」
「う、うん。大変だけど楽しくもあるし、頑張るわ」
「本当にすごいわ。私はこの子のお世話でいっぱいいっぱいで、とても仕事なんてできないから。がんばってね」
友里恵の穏やかな口調に、なぜだか胸が強く痛む。
「ありがとう……」
どこか気まずい空気感を残しつつも、会話はそこでひと段落した。麻美はまだベソをかき続ける赤ん坊と母親を残し、「じゃあまた」とロビーを後にする。
「遅くまでお疲れさま、おやすみなさい」
背中に親子の気配を感じながら、エレベーターに乗り込む。
その鏡に、目と頬を赤く染めた濃い口紅の女の顔が映り、麻美は怯んだ。
地味でも冴えなくても、柔らかな母性を放っていた友里恵と自分とでは天と地ほどの差があった。どれだけ疲れていようとも彼女には余裕があり、自分にはそれがない。欲求まみれの、貪欲な女の顔。
麻美はその顔から目が離せないまま、どうしようもない敗北感にひどく打ちのめされた。
(文/山本理沙)
※次回(夫:康介side)は8月28日(土)公開予定です