2021.8.14
「子どもは作らないんですか?」 妻を襲うSNSの刃に、“ママ”との格差…逃れられない女の苦しみ(第15話 妻:麻美)
女の匂いのする夫のワイシャツを、黙って処理する妻
「昨日もらったエクセルだけど、数字が甘すぎるんじゃないか?あと内装の業者は何社相見積もりとった?」
「……3社とったわよ。デザインも添付したけど見た? いいでしょ?」
「デザインなんかより、経費はもっと抑えた方がいいよ。ビジネスだろ。じゃあ行って来る」
早朝に夫を送り出すと、麻美は1人顔を歪めて大きく息を吐いた。
ここ数日何があったのか、康介の機嫌が悪い。重箱の隅を突くように、やたらと麻美の仕事に苦言ばかり並べるのだ。
お金の件を根に持っているのか、単純に仕事でストレスでも抱えているのか。あるいは女と揉めたのか。
それにしても、あれほど嫌味な態度を取り続けるのは子供染みているし、マナー違反ではないかと麻美は思う。
仮面夫婦として、お互い好きにやっていくことは暗黙にのうちに了解したと麻美は認識している。
だからこそ、本人はまるで気づいていないだろうが、たびたび女の気配を家に持ち込む夫を麻美は完全に放置してやっているのだ。甘ったるい匂いがほのかに香るワイシャツも黙ってクリーニングに出すし、康介の好物を食卓に並べ、妻としての役割をこなしている。
不思議なほど嫉妬という感情は沸かなかったし、むしろ妻業をこなすのも苦痛でなくなった。
夫婦関係を割り切るほど、夫への期待が無くなるほど、“妻”という肩書は便利なもので、その利用価値はまだあると考え直したからだ。
康介も同じような判断をして、1,000万円を麻美に渡したと思っていたのに。
それなのに今、麻美は酷く居心地が悪い。
気にしなければいいと思っても、夫の重苦しい存在感や険しい表情、小言にどうしても神経を逆撫でされてしまう。一体、いつまでこれが続くのだろう。
――やっぱり、そのうち離婚するのかしら。
それならそれで、まったく構わないと思った。
けれど貰うものは貰う必要があるから、近々区役所や銀行を回り、康介の課税証明書や口座の明細などを集めておこう。康介も独立云々言っていたから、知らぬ間に財産を隠されても困る。
麻美はコーヒーを啜りながらインスタグラムを開き、投稿の下書きを始めた。
エステサロン開業を告知してから投稿内容は美容に絞るようにしたが、これが正解だった。美容に関する質問DMも日々殺到し、麻美なりの回答を載せることでコアなファンが増えている手応えもある。
PR関連のオファーも増えているから、このままうまくいけば、おそらくどこかとコラボ商品の開発、いや、自分のブランドを持つことだって夢じゃない。
流れで辿り着いた起業だが、すべてがトントン拍子に進んでいる。つまりこの仕事は自分に向いていたのだ。
この調子なら、別に夫は必要ない。無駄な悪態で妻の足を引っ張るなら、本当にいなくなってくれて構わない。今の麻美なら、離婚だってうまくコンテンツ化できるとすら思う。
そのとき、昨日のネイルの投稿にやたらと多くのコメントがついていることに気づいた。
『麻美さん、子どもは作らないんですか?』
『夫婦仲は順調ですか?子どものいない人生を寂しいと思ったことはありますか?』
『不妊治療などされているか教えてください』
延々と並ぶ不気味な文字に、麻美は思わず息を飲む。
「…………」
全身に冷ややかな痛みが走った。見えない敵に突然急所を突かれたように、自分でも戸惑うほど動揺してしまう。
麻美は急いですべてのコメントを削除し、無名のアカウントをブロックすると、まだ熱いコーヒーを胃に流し込みスマホをソファに放り投げた。