2021.7.17
離婚するのは、夫の「利用価値」がなくなってからでいい。夫の浮気を見逃した妻の策略(第13話 妻:麻美)
離婚を考えるのは、夫の「利用価値」がなくなってからでいい
数日後、麻美は帰宅した康介から真新しい通帳を受け取った。
「支出とか計画とか、そういったのは適宜報告してもらえるかな。念のため」
まだ腑に落ちないような、苛立たしいような、そして何かを諦めたような表情で夫は言う。その疲れた横顔を見て、麻美は久しぶりに康介を愛おしいと思った。
「こうちゃん、ありがとう……! 本当に頼りになる。もちろんよ。一応、事業計画も帳簿も作ってるの。むしろ、こうちゃんに見てもらえたら心強いわ」
神経質な弁護士に無駄な指摘を受けないためのデータ作りのコツは、秘書時代に嫌というほど身につけた。また新人の頃、やたらと数字に厳しい弁護士の担当になり簿記の資格を取らされたこともあったが、まさか当時の苦労が今さら役立つとは思わなかった。
「疲れたでしょ? 今日は薬味たっぷりの冷汁を作ったから。これ、こうちゃん好きだよね。煮物もあるわよ」
「……あぁ、ありがとう」
麻美はテキパキと夕食の準備をしながら、先日内見した南青山の住宅街の物件のことを思った。駅からは少し遠くかなり古い物件だけれど、静かで気の流れの良さそうな場所だった。半地下だが南向きで日当たりも良く、広めのパティオが付いているのもいい。
うまくリノベすれば、きっと理想に近い店になる。善は急げ。資金が確保できたなら、さっさと契約してしまおう。セラピストの由紀が言っていた通り、これほど良いテナント物件が見つかるのはコロナ禍だからこそだ。
さっそく頭の中で電卓を叩いていると、ふと康介の視線を感じた。
「どうしたの? ビールでも飲みたい?」
「いや、何でも……」
麻美はそんな夫に再びニッコリと微笑み、「たまには2人で乾杯しましょ」とビール瓶を開けた。
「乾杯!」
渋々とグラスを合わせた夫に構わず、麻美はビールを飲み干す。
開業資金の交渉以来、康介も麻美もワザとらしいくらい節度ある生活を送っていた。夜はどちらも早く帰宅し、食卓を囲み無難な会話を交わし、顔には笑顔を貼り付ける。
お互い落ち度を見せないように、弱味を握られないように、良い夫婦を演じているのだ。特に康介は必死なのだろう。
もしも離婚となった場合、原則的に康介は自分の資産の半分を麻美に渡すことになるし、別居となった場合も婚姻費用など諸々の支払い義務が生じる。勤め人である康介は収入を隠すのも難しいから、打撃はかなり大きい。
彼は麻美の不貞も疑っているだろうが、“朝帰り”という大失態を彼自身が犯した今、それを暴くメリットもない。
当然彼もそれが分かっているから、麻美が離婚をチラつかせた途端、もう何も言えなくなってしまったのだ。それ以前に、保守的な康介が妻という存在をそう簡単に手放せるとも思えなかったが。
「私、本格的にお仕事がんばるね。こうちゃんも応援してね」
少し前までは窮屈だと思っていた結婚生活も、このルールを逆手に取って利用できるならば、これほど便利なものはない。利用しながら、麻美は自分の人生を生きればいいのだ。離婚を考えるのは、夫の利用価値がなくなってからでいい。
康介が自分のグラスにお代わりのビールを注ぐのを見つめながら、麻美は明日の日中、また晋也に会いに行こうと決めた。
働く女には息抜きも必要だ。