2021.2.13
「デメリットしかない」ー妻の不妊治療提案をはね退けた夫の言い分(第2話 夫:康介)
その後、何かが急に変わるということはなかった。
麻美は変わらず豪勢な和朝食を準備してくれるし、流れ作業感はあるものの“行ってきますのキス”も欠かさない。
ただ、互いに適度な距離を置くようになった。
例えば帰宅時刻や夕食の要否など、必要なやりとりはしても、その日の出来事をつぶさに語ったり、ゆっくりと将来を語らうことはしない。二人で仲良く食事に出かけることはあっても、高級鮨やカウンターフレンチを選んで、お互い会話より食に集中している。
とはいえ、康介も不妊治療の話を蒸し返されたくなかったし、そんな変化も最初はむしろ好都合、くらいに捉えていた。そのうち夫婦生活もなくなったが、実はこのことに関しても康介はほとんど気に留めていない。
年齢的に性欲自体が減少しているし、何より麻美が不妊治療の提案などという余計なことをしたせいで、そういう行為に及ぼうとすると「子作り」が頭をかすめ、萎えてしまうのだった。
そして、麻美の方だって、そんな夫婦関係を良しとしていたはずだ。
例の件があってから特に、妻は夜に出歩くことが増えた。しかし康介がそれに文句を言ったことなどないし、どこで何をしているのか追及もしない。お互い必要以上に干渉せず、自由に暮らす。それでうまくやってきた。
それなのに、近ごろの麻美は隠しきれない不満を滲ませてくるのだ。しかも面と向かってではなく無言で、じわじわと。
――まったく。俺にどうしろというんだ。
せっかく手に入れた高級マンションなのに、家での居心地を悪くされたくない。何かプレゼントでも贈れば変わるだろうか?
ああ、面倒だ。康介は頭を振り、麻美について考えるのをやめた。
懐かしい女との再会
丸の内のオフィスビルに到着し、自席にバッグを置くと、康介はノートと筆記具だけを持って会議室へと向かった。
「櫻井さん。ご無沙汰してます」
部屋に入ると、懐かしい女性の顔があった。ボブだった髪が伸びている。しかし躊躇なくこちらを見据える、まっすぐな瞳はそのままだ。
「小坂さん。お元気そうですね」
無意識に声が弾む。頬が緩んでいるのも自分でわかった。小坂瑠璃子。彼女と会うのは、実に5年ぶりである。
瑠璃子はSNSから火がついた売れっ子ライターで、WEBを中心に数々のメディアに記事を寄稿している。
今から5年前、彼女がブログに書いた小説がバズって映像化されることになった。その際に、著作権まわりの取り扱いが曖昧でトラブルに発展し、知人経由で康介を頼ってきたのだった。
「その節は本当にお世話になりました」
苦笑いで前髪をかきあげる、彼女の左手に目がいった。薬指に指輪は、ない……ということは、まだ独身か。無意識に確認していた。
「ええっと、契約書のチェックでしたね。今度は書籍の出版……?」
「そうなんです。もうトラブルは避けたいので、櫻井さんにしっかり確認してもらおうと」
康介は早速、手渡された書類に視線を落とす。瑠璃子はマスクをずらし、アシスタントが用意したコーヒーに手を伸ばした。
しかし3分も経たぬうち、彼女は再び「櫻井さん」と康介の顔を覗き込んだ。
「メールでもよかったんですが、久しぶりにお会いしたくって。あの、このあと、よかったら一緒にランチいかがです? 忙しいかしら」
上目遣いで誘われ、思わず狼狽えてしまった。
康介は見た目も悪くはないし、エリート弁護士の肩書きを持っている。しかし大学時代のほとんどを司法試験に捧げたうえ、事務所に入ってからも社畜のごとく働き詰めてきた男だ。実はさほど女性には慣れていなかった。
丸い、大きな瞳に見つめられ思考が停止する。
「い、いいですね。ぜひ……」
衝動的に答えてから、頭をフル回転させて予定を思い出した……大丈夫だ。このあともう1つアポがあるが12時半には終わる。
「えーっと、12時半には出られます」
「よかった。それなら近くで仕事しながら待ってますね」
康介は小さく咳払いをし、瞬きをしながら再び書類に視線を落とす。しかしにっこり微笑んだ瑠璃子の、厚みのある唇が瞼に残って消えなかった
(文/安本由佳)
※次回(妻:麻美side)は2月27日(土)公開予定です。