2024.9.19
映画『ルックバック』を観て思い出した神童覚醒前夜の親友・大城【学歴狂の詩 第16回】
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夢のような一つの可能性を想像させずにはいない
それでも、あの無邪気だった小学生時代に何の打算もなく付き合っていた友人とそのままコンビを組み、好きなことをうまく仕事にできていたら、どれほどすばらしい人生になったのだろうかということは、どうしても夢として考えてしまう。こんな話をなぜ思い出したのかというと、藤本タツキ先生原作の映画『ルックバック』を観たからである。『ルックバック』では藤野と京本という二人の女の子が、小学生時代からコンビを組んで漫画家として成功していく過程が(途中までは)きわめて美しい、私にとっては眩しすぎる青春として描かれる。その後の運命は過酷なものだが、二人の過ごした青春は二人だけが知る、決して誰にも侵すことのできない領域に不動のものとして在り続けるだろう。
かつてある小説家が、「自分たちは孤独にやっていくしかないが、バンドマンやコンビ芸人は仲間がいてうらやましい」と言っていたことを思い出す。その時私は「アホなことを言うな、小説は受験と同じで一人でやれるからいいのだ」というようなことを言った。それは掛け値なしの本音だったのだが、本当の本当のことを言えば、決して崩れない永遠の絆というものが存在しうるならば、そうした絆で結ばれた仲間がほしいという気持ちはやはり否定しきれない。『ルックバック』が提示した完璧な青春と絆は私の古い記憶を呼び覚まし、夢のような一つの可能性を想像させずにはいない、それだけの力を持つものだった。この記事が掲載される頃にまだ上映されているかどうかは不明だが、年齢にかかわらず激しくオススメしたい作品である。
さて、私が『ルックバック』のような作品を見て小学生時代の夢を思い出してしまうのは、やはりあの時、自分の気持ちより他人の評価を優先してしまった、という後悔が棘のように残っているからだろう。もちろん漫画家と名門大合格は別に二者択一ではないし、大学に入ってから漫画を描くことも理論上できるのだが、もう二十歳近い私はすでに自分がこれから何をやっても大した漫画家にはなれないとわかってしまっていた。
私の場合、その道を選ぶなら、あの無敵だった小学生時代しかなかったのである。私は、たとえ討ち死にすることになったとしても、あの頃もう少し真剣に悩んでみてもよかったのかもしれないと思っている。何を選んでもきっと後悔はあるだろうが、後悔を最小化したいなら、何かを選ぶ時に必ず自分を軸にして選ぶことを心がけなければならない。ありきたりな話だと思われるかもしれないが、「人が喜んでくれるから」という人生の選択ばかりを繰り返してしまうと、最終的なズレは修正不可能なほど大きくなってしまい、いずれ耐えがたい精神の危機に襲われることになるだろう。親族であれ友人であれ、あなた以外の人間は根本的にあなたの人生に責任を負っていないし、もちろん責任を取ることもできない。
大城と私が話したのは、「KinkiKids事件」の時が最後である。以降、私は電車や大学で彼を見かけても話しかけようとは思わなかったし、向こうもそうだったと思う。私と彼が「相棒」として過ごした日々は短く、そして大人になった私たちが共通の幸福な記憶として、ともにその時間を思い出すということももはやないだろう。だが、私が人生の初期に「創作」の楽しさを大きなものとして経験できたのは大城のおかげであることは間違いなく、それがいまの小説創作にも繋がってきている(かもしれない)のだから、あの時間はきっと、私にとってきわめて重要なものだったのである。
大城はあのころ、数字の「2」をモチーフにした「ツーくん」というキャラクターを作っていた。もしかしたら大城がどこかで「ツーくん」のTシャツやラインスタンプを販売しているかもしれないので、もし見かけたらぜひゲットしてあげてほしい。
次回連載第17回は10/17(木)公開予定です。
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