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東大京大医学部志望ばかりの超進学校で「神戸大学志望」を貫いた足るを知る男【学歴狂の詩 第13回】

「何かに本気になれたことがない、それが今でも心残りだ」

 翌年、私が浪人している時にも、本田とは何度か会った。本田は最初こそ大学や体育会の部活になじめず苦戦している様子だったが、やがてなにか全国を旅行してまわるっぽい楽しそうなサークルに鞍替えし、それ以降は非常に穏やかな顔をしていた。そして本田は、私たちより一足先に始まった就活でも無理はせず、私たちのほとんど全員が患っていた「大企業病」にもかかることなく、無理なく内定できそうで、かつ優良な就職先を見つけて今もずっとそこで働き、幸せな家庭を築いてもいる。

 客観的に見れば、本田の経歴ほど美しいものもないだろう。私は古代ギリシャのエピクロスによる「アタラクシア」(心の平静な状態)という概念を思い起こすとき、いつも本田のことを想像する。一応補足しておくと、エピクロス=快楽主義と覚えている方が多いような気がするが、エピクロスの言う快楽とはヤリ〇ン的なものとは違い(というか逆のものであり)、人間の感情を刺激する俗世からできるだけ距離を取って「アタラクシア」に達することを指している。おそらく共通テストでも出てくるレベルだと思うので、エピクロスがヤリ〇ン推奨の人ではない、ということは頭に置いておいて損はないだろう。

 だが、そんな本田と数年前に二人で話した時、本田は自分の人生を「つねに無目的に過ごしてきた」と悔いる様子を見せていた。いわく、「自分は若い頃本当に何かに本気になれたことがない、それが今でも心残りだ」と言うのである。私は本田の生き方は、あらゆる過剰さを嫌う本田流の、いわば筋の通ったものだと思っていたが、ここに来てその生き方に疑問を感じ始めたというのだ。佐川や他の友人が限界まで自分を追い込んでいた時に、自分はずっとほどほどでやってきた、本当になりたいものもやりたいこともなかった、だから親戚での集まりなどがある時には、甥っこたちにも「ちゃんと考えて生きていかんと、おじさんみたいになるぞ」と言って諭しているらしい。私はその話を聞いた時、やはりやるだけやったという経験が必要なのかもしれないと自分を肯定したくなったのと同時に、外部に一切翻弄されない強い本田像が壊れる複雑な気持ちを感じてもいた。

 もちろん、本田が本当にそう思っていたかはわからない。本田は私を目の前にして、「お前は無理して京大なんか行くから人格が歪んだんちゃうか?」と言えてしまうタイプの人間ではないからである。本田は中学時代に出会った頃から一貫して変わらず、物腰のやわらかい人格者なのだ。私はゴリゴリに無理をして京大に入り、ゴリゴリに無理をして作家として何とか本を出せるところまで来た。私は基本的にだらけまくりの人間だが、「大学」と「作家」だけは絶対に納得いくところまでいかなければ気が済まなかった。そして「作家」という仕事に関しては、まだまったく自分の中での「納得」に達することができていない。周りを見ていてもきっと私だけでなく、作家という人種はそういうものなのだと思う。しかし、こういう極端な人生を送ってきたために失ったものは多い。多すぎる。ここに書けないものもたくさん失ったし、今も失い続けている。だが、私という人間から学歴と作家業を取り払ったら、後には灰一つ残らない。私は本田になろうとしても決してなれない人間なのだ。

私は結局、徹頭徹尾欲望に支配された俗人だ

 こう書いてしまうと、もしかすると何か強い目標を持っている私の方が偉いという主張に見える方もいるかもしれないが、私は決してそう言いたいのではない。私は結局、徹頭徹尾欲望に支配された俗人だと言いたいのだ。なぜ東大京大でなければならないのか? それは一言で言えば見栄のためである。あまりそう考えたくはないのだが、この国が東大京大に高い価値を認めないような社会だったならば、私が京大を目指すことはなかっただろう。なぜ作家でありたいのか、という点に関して言えば、書いている時間が楽しすぎるから、というのがもっとも大きいのだが、自分の能力を知らしめたいという自己顕示欲がそこにまったく介在していないと言えば嘘になる。本当に良い作品を楽しく書きたいだけだというなら、無記名でネットに文章を置いておけばいいのだから。それを誰かに知られたい、本という形にしたいというのは、いくら綺麗な言葉で飾っても、人間らしい不純な欲望に基づくものだと言わざるをえないだろう。

 私は本田のすべてを知っているわけではもちろんないし、本田自身が開陳した「後悔」がどれほど本気のものなのかもわからないが、周囲に流されず無欲に誠実に生きる、という真の茨の道を選んで歩き続けているのが、やはり私の認識する本田なのだ。あの時東大寺とラ・サールを受けなかった、京大を受けなかった、大企業に惑わされなかった本田には、並の人間にはない確固たる自己というものが備わっているに違いない。もちろん、彼が完全に正解で、全員が彼の生き方を称揚すべきだということでもない。人間らしい欲望をガソリンにして、現実社会での圧倒的成功を目指す生き方も一つの立派なヒーロー像である(だが、そうした生き方を散々推奨し実践してきた上で、今度は反省の身振りを見せて弱者に寄り添う言説を垂れ流し始めるタイプの人間を、私は決して信じない。それは単に自らの時代を読み取る嗅覚に従い、結局は自分が成功するための最も効率的な方法を選んでいるだけなのであって、その人間の本質はまったく変わっていないからだ。もちろん「転向」が悪いわけではないが、ある人間が本当に「転向」したのかどうかは慎重に見極めるべきだろう)。

 ここまで色々と好き勝手なことを述べさせてもらったが、自分の人生のスタンスは自分で決めるしかない。明確な答えもない。当然だが、私が良いと思わない生き方も、あなたが良いと思わない生き方も、ある人間にとっては「絶対的な」正なのである。君たちはどう生きるか――これは人間が生きる限りつねに喉元に突きつけられ続ける、そして完璧な解答の存在しえない終わりなき問いなのだ。今回紹介した本田の生き方を、そうした難題を解きほぐすささやかなヒントにしていただければ幸いである。

 次回連載第14回は7/18(木)公開予定です。

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佐川恭一

さがわ・きょういち
滋賀県出身、京都大学文学部卒業。2012年『終わりなき不在』でデビュー。2019年『踊る阿呆』で第2回阿波しらさぎ文学賞受賞。著書に『無能男』『ダムヤーク』『舞踏会』『シン・サークルクラッシャー麻紀』『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』など。
X(旧Twitter) @kyoichi_sagawa

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