2023.6.15
「田舎の神童」の作り方──滋賀の田舎町には私を超える人間が見当たらなかった
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「世界のナカータを越えられるのは恭ちゃんしかいない!」
こうして田舎町の公立中学を制圧した私は、東京や大阪や別の塾や私立中学にどれほどの猛者が潜んでいるかも知らず、自分の頭脳を日本有数の宝と思い込み、受験に向けて飽くなき努力を続けた。この頃、私は人生で最高に調子に乗っていた。もうあれほど調子に乗ることは二度とないだろう。たとえこれから芥川賞やら直木賞を獲っても、百万部売れても一千万部売れても、メチャカワアイドルから告白されてもノーベル文学賞を獲っても、中三の頃以上に調子に乗ることはありえない。当時の私を見ていた公立中学の先生たちは、私が決定的に勘違いしていることを見抜いていたと思う。実際、ある先生から「いくらいい高校に行ってもお前みたいな奴はダメだ」と言われたこともあった。私は、その先生が大した高校を出ていないからやっかんでいるのだろうと本気で思っていた。だが、今考えれば、先生の言葉は正しかったのだ。
もし私が東京に生まれ、もっとすごい人間がたくさんいるということを肌でわかっていたら、それほど調子に乗ることもなく、裏を返せば限界を超えるような努力をすることもなく、学歴にこだわることもなかったかもしれない。少なくとも東大や京大には入っていなかったと思う。その場合、今よりも良い人生になっていたのか悪い人生になっていたのかわからない。わからないが、田舎町に生まれ勘違いして調子に乗ったこの人生を変えることはもうできない。
最終的に、私は某R高校と東大寺学園高校とラ・サール高校に合格し、母を狂喜させ、塾の先生たちを狂喜させ、クラスメイトたちに祝福された。クラスメイトたちは、当時サッカー界で大活躍していた中田英寿を引き合いに出しながら、「佐川君は日本におさまる器じゃない」と言った。「世界のナカータを越えられるのは恭ちゃんしかいない!」
私は度外れたアホだったので、「確かにな」と思っていた。というか、小学校時代にサッカー部を即やめた経験からサッカーが嫌いになっていたので、「中田とか球蹴ってるだけやん」と本気で思っていた。私の脳内では、セリエAで活躍することより、東大寺に合格することの方がはるかに上だったのだ。私はそのまま、家から通える某R高校に進学することになる。特進コースだったとはいえ合格した中ではもっともレベルの低い高校だったので、私はそこで軽くトップを取り、大学は最低でも東大、もしそれが簡単すぎるようなら海外の大学も視野に入れようと思っていた。それから私は、京大文学部に一浪で命からがら合格するまで、地獄の四年間を過ごすことになる。そこで私が見聞きしたものや私自身の経験、そしてその先に何が待っていたか、実際に学歴とはどういうものなのかといったことについて、この連載の中で力の続く限り紹介していきたい。
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次回連載第2回は7/20(木)公開予定です。