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「田舎の神童」の作り方──滋賀の田舎町には私を超える人間が見当たらなかった

滋賀の田舎町には、私を超える人間が見当たらなかった

 そのまま公立の中学に入ると、定期テストや実力テストというものが始まる。私はそこで五教科480〜495点ぐらいを取りまくり、それが結構ヤバイということになった。私は「天才」ということになり、私も「僕は天才なのでは…?」と思うようになった。一方、塾の方でも小学校時代より大規模な全国テスト(といってもせいぜい近畿地方が塾の勢力圏なのだが)が行われ、そこで1〜4位ぐらいをコンスタントに取り、やっぱり天才ということになった。天才ということになると、やる気が出る。私は誰に言われるでもなく異常に勉強するようになった。そこで塾は私に、某R高校や東大寺学園高校、ラ・サール高校を目標にやっていこうと言った(ちなみに、灘は某R高校と受験日が一緒なので受けられないと言われたが、そもそもその塾で全国一位を取っても灘の合格率は二十~四十パーセントだった。塾自体が灘に対応していなかったのだ)。いや、近くの彦根東でいいです、とはもはや思わなかった。私はより高い目標を目指して自分に過剰な負荷をかけることに、そしてそれが成果として現れる現実に、快感さえ覚えるようになっていった。

 塾の同じ教室には私以外にも二人ほど全国ベスト30に入るぐらい優秀な生徒がおり、塾は「田舎に奇跡的に集ったこの三人の宝を育てなければならない」みたいになって、なんと私のいたいわゆる特進クラスが特進A、特進Bに分割された。わざわざ塾が私たちのために編成を変えたのである(これは記憶違いの可能性もあるのだが、私の通っていた教室には最高レベルのクラスが設置されておらず、多分それを勝手に作ることもできなかったので、上から二番目のクラスを二つに割り、片方を疑似最高クラスとして扱ったみたいな感じだったと思う)。私はこのVIP待遇を見て自分を完全に天才だと確信した。これは田舎特有の現象だろう。東京や大阪ならもっとレベルの高い塾が乱立しているし、周りに自分より出来る人間はいくらでも見つかったはずだが、私のいた滋賀の田舎町には、私を超える人間が見当たらなかったのだ。

 視野が狭すぎる、と言われればその通りなのだが、まだインターネットも発達していなかったし、SNSなんて影も形もなかった。たとえば中学生に格闘技団体のUFCやRIZINの存在を教えずブレイキングダウンだけを見せていたら、ブレイキングダウン選手を世界最強だと思うようになっても無理はないだろう。しかし、この視野の狭さが私の勢いを加速させた。「自分は天才だ」という思い込みは、私を勉強にドハマリさせたのである。私は神に与えられたこの才能を腐らせてはならないと思い込み、勉強に勉強を重ねた。勉強していない時間をいかに減らすかということにこだわり、風呂に入る前には間違えた問題を紙に書き、風呂の壁に水分で貼り付けた。頭を洗っている時以外はそれを睨んだ。記憶術の本を読み、夜眠る前には必ず暗記物をやるようにした。

 通っていた公立中学の授業はもはや完全に無駄だった。簡単なワークを終えて余った時間で、隠れて塾のテキストをやった。同じ塾の特進Aの菅井君(彼は後にも出てくる重要人物である)などは、なんと授業中に某R高校の赤本を机に丸出しで解きまくり、先生からベランダに呼び出されて激怒されていた。私はさすがにそこまであからさまにやる度胸がなかったので、「菅井、やるな」と思っていた。

 そんなこんなで、私は勉強に明け暮れる中学時代を過ごした。公立中学なので(?)喧嘩に明け暮れるヤンキーもいたし、ガチのヤクザの息子もいた。しかしヤンキーたちですら私を天才と認め、温かく応援してくれた。普通にガリ勉と言われていじめられても良さそうなものだったが、私のガリ勉ぶりとそこから叩き出す偏差値は──自分で言うのもなんだが──町内では常軌を逸しており、ほとんど神の領域に達していた(あくまでも町内では)。ヤンキーたちもおそらく私のことを、国の未来を担う逸材だと考えてくれていたのだ。

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佐川恭一

さがわ・きょういち
滋賀県出身、京都大学文学部卒業。2012年『終わりなき不在』でデビュー。2019年『踊る阿呆』で第2回阿波しらさぎ文学賞受賞。著書に『無能男』『ダムヤーク』『舞踏会』『シン・サークルクラッシャー麻紀』『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』など。
X(旧Twitter) @kyoichi_sagawa

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