2021.12.28
江戸時代漫画事情──慈悲の手と、無慈悲な表現規制の果て
千手観音の手を借りたひとたちの滑稽な群像模様
特にわたしが好きで、とても黄表紙らしい作品に芝全交作・北尾政演絵の『大悲千禄本』(1785年)がある。ちなみに、絵を担当している北尾政演は山東京伝(*1)の絵師名義だ。不景気に喘ぐ時代に、面の皮千兵衛という投機的な商売人が千手観音にお願いして、その腕を切り落とし「手を貸す」商売を始める。タイトルの「大悲」はこの千手観音の慈悲をあらわし、また大根の切り方の呼称「千六本」ともかけている。千手観音という聖なる存在の卑俗化と、その手を借りたひとたちの滑稽な群像模様が本作の特徴だ。
最初に借りに来たのは、腕を切り落とされた茨城童子だ。茨城童子は鬼――鬼の腕には毛が生えている――なので、つるつるの観音の腕に毛を生やそうとする。同じように戦で右腕を切り落とされた平忠度は、早とちりして観音の左腕を借りてしまったせいで、歌を詠むにも左文字になってしまう。忠度が詠んだとされる「ささなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」という歌が読み人知らずとして残されているのは、この左文字になってしまってかっこつかなかったから、とこの作品ではこじつけられている。
他にも、文字が書けないひとがその手を借りてものを書こうとすると、どうしても梵字しか書けなかったり、遊女に貸した手は、身体の一部を差し出したり傷つけたりする「心中立て」のために小指を切り落とされていたり、染め物屋に貸した手は青く染まっていたり、ぬか漬け作業に使われていたり、どうやら性交にも使われていたり。商売や性的な「手腕」の有無など、慣用句の言葉遊びをまじえ、当時の市井の生活模様もユーモアに描かれる。最後は坂上田村麻呂が観音の手を借りて(*2)、鈴鹿の賊を退治しに征き「てててて……」と三味線のアウトロが鳴り、浄瑠璃の舞台のように物語が締められる。

もし現代で『大悲千禄本』の二次創作ができるなら、女性の腕を持ち帰ってハァハァする名作『片腕』を書いた川端康成と、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第四部のラスボスであり手フェチ殺人鬼・吉良吉影も登場させたいところだ。
また、黄表紙作品の特徴として「語源説」というものがある。言葉や慣用句の語源と物語をこじつける笑いだ。『大悲千禄本』では忠度の読み人知らずの歌のほか、蝋燭の持ち歩きに使われる「手燭」という道具の語源説が炸裂。これによれば、千手観音の爪に火をともして蝋燭の代わりにしたのが由来だそうだ。嘘乙って感じだ。