2021.11.30
天下一言語遊戯会──俳諧史とポピュラー音楽の意外な共通点
芭蕉によるテクニックの引き算
この俳諧の「文芸」的価値を考えるにあたって、前回紹介した芭蕉の強迫的なまでのリテイクがヒントのひとつなるかもしれない。実は芭蕉はこの談林派出身で、当時は桃青というペンネームで活動していた。かの有名な「古池や」の句の初案は、談林風だという指摘が多い。
「古池や蛙飛ンだる水の音」(「庵桜」)
「古池や蛙飛び込む水の音」(「蛙合」「春の日」)
明らかに変わった点は「飛ンだる」から「飛び込む」だ。この「飛ンだる」の軽さが談林俳諧らしいそうだ。わたしは先に完成形を知っていたので牽強付会かもしれないけれど、前者は蛙が飛び込む音よりも「飛ンだる」という言語的快楽のほうに意識が向いてしまう。軽妙さを捨てる──今どきな表現をすれば、テクニックを引き算したことでこの句が評価され、芭蕉は自身の作風を確立した。
晩年の芭蕉は「高悟帰俗」を説いた。わたしはこの言葉をきちんと理解できている自信がないのだが……つまり、高く悟り俗に帰るのが俳諧である、という禅思想に近いものだ。この「俗な世界のなかに雅がある」という不思議な風味を近世文学研究の領域では「俗中雅」といった表現をするそうだが、ただ和歌のパロディや言語遊戯に興じるのではなく、俗中雅のような新たな感覚を生んだから「文芸」としての価値を見出されたのだろう。そしてこの新たな感覚こそ、芭蕉のエポックなところだとわたしは感じる。
文学史を踏まえれば、そんな「ポチャン」という音は、それまで和歌・連歌にもなく、そしてただパロディや言葉遊びに甘んじた既存の俳諧にもなかった、新しい音の発見であったはずだ。当時の日本人さえ「蛙飛び込む水の音!?!?」「芭蕉神、天才かよ……」と驚いたかもしれない。
ところで、この「雅」すなわち伝統と「俗」すなわち新興の対立と融和は、現代音楽に置き換えてもそんなに乱暴なことではないとわたしは思っている。J-POPというか、ジャズ、ロック、ポップ、EDM、ヒップホップなどを含むポピュラー音楽は、伝統的なクラシック音楽に対するアンチテーゼといってもよいだろう。そのふたつでは音楽理論や用語がやや違う。和声と和音の考え方はもちろん、細かいことだがクラシックでは音名をドレミやドイツ語のアー・ベー・ツェーと読むのに対し、ポピュラー音楽ではエー・ビー・シーと英語読みするところも異なっている。また、ポピュラー音楽にはクラシックと異なり「禁則」と呼ばれるものがない。(厳密には「好ましくない」という扱いなので、あるっちゃあるし、ないっちゃない、といった感じらしい)それはクラシックのルールを破り、裾野を広げるように発展してきたからだ。また反対に、何でもありであるポピュラー音楽は、対位法などのクラシック的手法を取り入れることもできる。これも俳諧との親和性が高い。芭蕉の弟子・各務支務による聞き書き『続五論』に「俳諧は高下の情をもらすことなし」とある。俳諧は素材や心情を雅か俗かで選別することはない。それは俳諧師の身分を問わない姿勢にもつながる。
職業作曲家にはクラシック畑からやってきたひともいれば、バンドマン、DTMer(*4)もいる。生まれや育ちは関係ない、というより、どんな出自も個性であり武器となるような、天下一武道会であることも俳諧と共通している。PCやDTMの際に使うソフトやアプリが普及し(*5)、YouTubeにポピュラー音楽理論の解説動画が増えて、デジタルネイティヴ世代がぞくぞくと成人してゆく今日このごろ、特にその傾向が強くなっているとわたしは感じている。