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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
実兄の孤独死をめぐる顚末を描いたロングセラー『兄の終い』のほか、翻訳書『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』、近刊『全員悪人』『ハリー、大きな幸せ』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』など、数多くの注目作を手掛ける翻訳家の村井さんが琵琶湖畔に暮らして十数年。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

やる気スイッチを押した最恐物件ーサボりの天才が仕事に向かうきっかけは

 集中してやっていた仕事を、やむを得ない事情で中断せざるを得ない機会が増え(受験生とか後期高齢者とか)、集中すること自体が難しくなってしまった。なに、これは今に始まったことではない。集中できない性分は子どもの頃からで、ある意味筋金入りだ。胸を張って自慢することではないが、スロースターターとは私のことだと断言できる。
 これは私の業務内容からすると、致命的と言えなくもない。翻訳の仕事というのは、とてつもなく時間のかかる、細かい作業の連続である。そのうえ、締め切りが決まっている。集中力を欠くことはミスに直結しているし、それより何より、長期間にわたって翻訳作業に伴走してくれる編集者にも迷惑なことこの上ない。だからこそ、自分の弱い気持ちに鞭打つように日々格闘しているのだが……長くて細かい作業がそもそも苦手な私が相当な無理をして挑んでいるのがデフォルトなので、そこに予期しない中断が挟み込まれることで、そもそも難しいことが、相当難しいことになっている。悩ましい。お金を払ってでも集中力が欲しい。
 ただ、自分で言うのもなんなのだが、私は気晴らしが上手なのだと思う。サボりの天才かもしれない。堂々と書いてしまって申し訳なく思う。もちろん、やる気スイッチが入るまでが相当長いと自覚しているし、そのスイッチが入るまでの期間、何かと理由を見つけてはデスクから離れ、現実から逃げ、ひたすら自分が楽しい方向に流れることに躊躇しないのは、とても迷惑なことなのではないか!? と反省している。だからこそ、毎日必死だ。戻ってこい、私のやる気。いつでもいいぞ! さあ、帰ってこい! と念じることで忙しい。
 しかし、ひとたびやる気が戻ったら、そのスイッチが切れることがないこともわかっているのだ。最後のページをめくるまで、私のやる気スイッチは赤いランプを点灯させたまま、ギラギラとその存在感を主張する。眠くなることも、むやみやたらに立ち上がって冷蔵庫を開けることも、甘い物をつまみ食いしたら、今度は塩辛いおやつをひっきりなしに探すことも、やらなくてもいい掃除をすることも一切なくなる。そんな奇跡のターンがやってくるまで潜伏するのは、決して自分にとってはマイナスではないと思える。誰にもそんな時期はあると思うのだ。そして、そういった助走のような期間も、長く仕事を続けるためには大切だと思うのだ。
 例えば、先日起きたこと。私はその日、いつものように家族を送り出したあと、起きたばかりなのにすぐに眠くなってしまい、犬と共にソファーに寝そべって「やる気~、私のやる気~」と呻いていたのだが、寝そべりながらちらちらと見ていた不動産関連動画で紹介されていたとある物件を見て、背筋が凍り付いたのだった。
 その物件は、「ダウンメゾネット」と紹介されていた。聞き慣れない言葉で、余計に興味が湧いた。アパートにしては珍しい一階建てで、一見、普通のワンルームに見える。玄関を開けると、正面にキッチンと六畳ほどのダイニングルーム。ダイニングには小ぶりの窓があって、日当たりもいい。普通の物件と少し違うのはここからだ。ダイニングルームの手前側に、なんと地階に降りる階段が設置してある。設置してあると言っても、まるでフロアに真四角の穴がぽっかりと開いているように見える。唐突に穴が開いていて、そこから空間が広がっているのである。当然、薄暗い。真四角の穴から急な階段が伸びている。幅の狭い、黒い階段だ。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。
最新刊は『ハリー、大きな幸せ』(亜紀書房)、および『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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