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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
実兄の孤独死をめぐる顚末を描いたロングセラー『兄の終い』のほか、翻訳書『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』、近刊『全員悪人』『ハリー、大きな幸せ』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』など、数多くの注目作を手掛ける翻訳家の村井さんが琵琶湖畔に暮らして十数年。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

自分を暗い場所から引っぱり上げる術―やるべきことが多すぎて

 最近はやらなければならないことが格段に増えて、自分でも整理ができなくなってきている。一旦諦めてベッドに横になり、目をつぶって色々と考えると、ベッド横の窓から秋のにおいがしてきたりして、途端に、仕事なんて、ああ仕事なんて……という気持ちになってしまう。でも、私にはやることが山積みなのだ。特に今年は本当に大変。一生に一度、とんでもなく忙しい時期があるとしたら、今年の私はまさに、それ! ビンゴだよ。
 頭の中が九分割ぐらいになっているイメージだ。あれをやって、これをやって、それからこっち、その後は、絶対にこれ。そうやってどうにかやり繰りしている。それをひとつひとつクリアすることに、達成感というか、ゲーム感覚まで出始めている。でも、私の時間は? 私「だけの」時間は? こんなことでいいの? 私はもっと自由に生きていいはずと、忙しいながらも自由時間を見つけては、勝手気ままに過ごしている。夕食も作らずに。
 先日から、敬愛する作家ミシェル・マクナマラの著作『I’ll be gone in the dark』について描かれたドキュメンタリー『ゴールデン・ステート・キラーを追え / I’ll Be Gone in the Dark』を観ている。観ているというか、ヒマさえあればずっと再生しっぱなしである。というのも、私は幸運なことに、ミシェルの遺作とも言えるこの一冊の翻訳を担当している。とても長い作品で、作業に時間がかかったし、内容が衝撃的かつ、出版後にあまりにも驚愕の展開が待ち受けていたために、忘れることができない一冊なのだ。内容は連続殺人鬼とその捜査録で、自由時間だというのに、わざわざ連続殺人鬼についての映像を観なくてもとは思いつつ、これは私の癖みたいなものなので致し方ないなどと納得している。
 このドキュメンタリーの制作が発表された時点で(たしか二年ほど前のことだったと記憶する)大興奮していたが、この度日本でも公開となり、早速テレビにかじりつくようにして観たというわけなのだけれど……こ、こ、これは……。
 本の内容をそっくりそのままなぞるようにして映像とし、そこに本では明かされていなかった著者の肉声が織り込まれる。それが、この上なくリアル。文章を書く人間としては、ど真ん中ストライクで辛い。書き手にとって、締め切りというものの重圧を全身で理解したというか、著者ミシェルの焦りをすべて自分事として受け取りそうになるほどの衝撃的な作品だった。特に、テーマソングが重いなんてものではない。それはそれは、重いのだ。
 書けない、どうしても書けない。書きたいけれど、主婦として、母としての仕事がある。さあ今よ、ようやく書きはじめるのよと意気込むと、夫が「夕飯は?」と部屋に来るし、子どもは汚れた手を洗ってくれと言う。長い間待ってくれている編集者は「このままでは出版に間に合わないかもしれないわ」と遠慮がちに言うし、夫からは「君ならできる」と言われ、実母からは「あなたは遅咲きなのかしら」と言われたトラウマが甦り……って、地獄だわ。著者ミシェルは一人で戦っていたのだろう。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。
最新刊は『ハリー、大きな幸せ』(亜紀書房)、および『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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