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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」

喫茶店の娘が直面した30年前の愛憎劇—美味しいサンドイッチとコーヒーと

 5分もしないうちに、友人が喫茶店に向かって歩いてくるのが見えた。私たちが窓際の席で、息を殺すようにしてじっと見ていることなんて気づいてもいない。白いシャツ、薄汚れたジーンズ、いつものぼんやりとした顔で歩いてくる友人に、心のなかで「無事を祈る」とエールを送りつつ、財布から千円を出してテーブルに置き、さあ逃げるぞと思った瞬間……先輩が一気に席を立ち上がり、そのまま勢いよく店から飛び出していった。私はあまりの驚きでその場を動くことができず、店にいた他のアルバイトの人たちも、マスターも、窓から外を見て「あらら……」みたいな声を出していた。そこではまさに、あららとしか言えない修羅場が繰り広げられていたのだ。
 しばらくして友人と会ったときに、あれからどうなったと聞くと、「別れたよ」と言っていた。先輩はどうすんの? と聞いたら、地元に戻るってさと彼は答えた。「そうなんや」と私は言い、「昼、どうする? 一緒に焼きそば定食でも食べへん?」と聞いた。すると彼は、「俺、食欲ないしええわ」と言い、落ち込んだ様子で立ち去っていった。私はなんとなく愉快な気持ちになって、フフフと笑いながら、焼きそば定食の食券を買った。彼は卒業後大阪で就職したと聞いたけれど、今はどうしているのだろう。いいお父さんにでもなっているのだろうか。
 私は喫茶店の娘ということもあって(両親は50年以上前に喫茶店を開業、6年前まで営業していた)、自分のなかによい喫茶店の指標めいたものがある(ミニスカートはまったく必要ない)。まず、静かであること。そして、清潔であること。最後に、野菜サンドが美味しいことだ。特に、トマトとレタスが美味しいお店は信頼できる。パンがほわっと柔らかいのも大事だし、トマトが新鮮なのも譲れないし、レタスがいきいきとしているのも重要だ。マヨネーズはたっぷりすぎず、でも少なすぎず、マスタードも忘れずに。きゅうりは薄くスライスしていてほしい。こんなサンドイッチに巡り会える場所では、当然のようにコーヒーも美味しい。いや、メニューのほとんどすべてが美味しいと言っていい。プリンが謎にハイクオリティーなのもこんな店だ。
 野菜サンドとコーヒーが美味しい店で、静かに好きな本でも読む。早くそんなことができる日々が戻ってきて欲しい。自由に動きまわることが出来るようになったら、素敵な喫茶店を巡りたい。

 今回読んだのは『サンドウィッチと喫茶の時間』(川口葉子)だ。全国の美味しいサンドイッチを出す雰囲気の良い喫茶店やカフェ60店舗あまりを美しい写真とともに紹介している。こんなサンドイッチもあるのかと、サンドイッチの新時代を感じる一冊だ。体力を失いつつある私は食べたらいきなり顎が外れそうだが、これをむしゃむしゃとやれる若者の生きる力がうらやましい。写真を見ているだけで旅をした気分になれる一冊だ。

川口葉子『サンドウィッチと喫茶の時間』(2020年3月/グラフィック社)
川口葉子『サンドウィッチと喫茶の時間』(2020年3月/グラフィック社)
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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』など。
最新刊は、家族の実話を描く書き下ろしのエッセイ『全員悪人』。すでに好評、話題となっている。

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