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父の死と、「さみしさという遺産」―今年、私は父の年齢を超える

 私が帰国してわずか一か月で、父は吐血して倒れ、入院した。すでに末期の胃癌で、余命幾ばくもない状態だった。当時、病院では癌患者に対して告知をしていなかったから、私たち家族はその事実をひた隠しにした。日に日に痩せていく父を見ながら、それをなかったかのように振る舞い続けた。もうすぐよくなるってよ、退院も近いんだって。そう言い続ける私たちと、そんな口先だけの誤魔化しに疑問を抱く父との間で、神経をすり減らすようなやりとりが増えた。俺の病気は一体なんなのだと怒りをこめて聞く父に対して、母は口ごもって何もはっきりとは答えなかった。そんな曖昧な態度を貫く母に私は苛立ちを募らせた。なぜきっぱりと否定しないのか。なぜ、うつろな表情で下を向くのか。私の母に対する嫌悪にも似た感情は、どんどん膨らんで、そのうち母を避けるようになり、父のいる病院には母のいない時間を見計らって行くようになった。

 父は、詰問の矛先をそんな私へと変えた。ある日、窓際のベッドに座った父が、細くなってしまった足をあぐらに組み、そこに枯れ枝のような両手を置いて、私を睨み付けた。

「お前は俺に嘘は言わないよな? 正直に言え。嘘をついたら、この窓から飛び降りてやる。お前だけは本当のことを言ってくれ。パパは癌なんだろ?」

「そんなわけないじゃない。癌のわけがないよ。パパは胃潰瘍かいようで、もうすぐ退院だよ」

 父は、落ちくぼんだ目でさみしそうに私をしばらく見つめたあと、少しだけ笑い、そして私に「もう遅いから家に帰れ」と言った。父が亡くなったのは、それから二週間後のことだ。その日を境に、私の心の奥底に、父のその日の強い悲しみが横たわっているような気がする。
 
 漫画家の松田洋子まつだひろこは『父のなくしもの』のなかで、さみしがりやの父の姿とその死を描き、さみしさが父の生命力であり、彼女自身が、その「さみしさという遺産」を受け継いだと表現した。この言葉に、私は大きな救いを感じた。確かに私も、さみしさという遺産を父から受け継いでいる。私はそれを父から受け取り、何十年も抱え込み、そして父の年齢を超える今になって徐々に吐きだしている。溜め込んだ強い悲しみとさみしさを吐き出すことで、ようやくそれから自分を、そして父を解き放とうとしている。

松田洋子著『父のなくしもの』(2019年7月刊行/KADOKAWA)
松田洋子著『父のなくしもの』(2019年7月刊行/KADOKAWA)
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村井理子

1970年、静岡県生まれ。翻訳家、エッセイスト。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』『ハリー、大きな幸せ』『家族』『はやく一人になりたい!』『村井さんちの生活』 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』『ブッシュ妄言録』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『ふたご母戦記』『ある翻訳家の取り憑かれた日常』『義父母の介護』など。主な訳書に『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖』『エデュケーション』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』『消えた冒険家』『ラストコールの殺人鬼』『射精責任』など。

무라이 리코
1970년, 시즈오카현 출생. 번역가, 에세이스트. 주요 저서로 『오빠가 죽었다』 『낯선 여자가 매일 집에 온다』 『필요 없지만 고마워: 항상 무언가에 쫓기고, 누군가를 위해 지쳐있는 우리를 구원하는 기술』 『하리, 커다란 행복』 『가족』 『빨리 혼자가 되고 싶어!』 『무라이 씨 집의 생활』 『무라이 씨 집의 꽉꽉 채운 오븐구이』 『부시 망언록』 『갱년기 장애인 줄 알았는데 중병이었던 이야기』 『책 읽고 나서 산책 가자』 『쌍둥이 엄마 분투기』 『어느 번역가의 홀린 듯한 일상』 『시부모 간병』 등이 있다. 주요 번역서로는 『요리가 자연스러워지는 쿠킹 클래스』 『어둠 속으로 사라진 골든 스테이트 킬러』 『메이드의 수첩』 『배움의 발견』 『포식자: 전 미국을 경악하게 한, 잠복하는 연쇄 살인마』 『사라진 모험가』 『라스트 콜의 살인마』 『사정 책임』 등이 있다.

X:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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