2024.4.10
部活帰りのラーメン
群ようこさんが小説の中で描く食べ物は、文面から美味しさが伝わってきます。
調理師の母のもとに育ち、今も健康的な食生活を心がける群さんの、幼少期から現在に至るまでの「食」をめぐるエッセイです。
イラスト/佐々木一澄
ちゃぶ台ぐるぐる 第4回 部活帰りのラーメン
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近頃、町中華がはやりだそうである。テレビを観ていると、毎日、必ず一軒は紹介されているような気がする。高齢の店主夫婦がずっと営業し続けていたり、閉店の危機があったのに、孫が会社をやめて店を引き継いでくれることになったりと、店それぞれに歴史があって、なるほどとうなずきながら観ている。
和、洋、中とメニューが豊富なファミリーレストランができても、それでも人が町中華に足を運ぶのは、味の好みはもちろん、何でもあるなかから選ぶのではなく、これしかないなかから選ぶ楽しみがあるからだろう。町中華特有の、ちょっとごちゃっとした、ざっくばらんな店の雰囲気もあるかもしれない。
私はファミリーレストランは、今までに二、三回くらいしか利用したことがなく、考えてみたら町中華には、五十数年行っていない。というのも、私はほとんど外食をせずに自炊をしているし、外食をするチャンスは、仕事の打ち合わせを兼ねた会食なのだけれど、そういうときに町中華は選ばれないので、ふと気がついたら半世紀以上も足が遠のいていたのだった。
いちばん町中華を利用していたのは、中学生のときだった。当時私は卓球部に所属していて、授業が終わるとほぼ毎日、体育館で練習していた。強豪校でも何でもなく、区の大会に出ても、一回戦には必ず勝つが、二回戦では必ず負けるといった程度の力しかなかった。ごく普通のゆるい部活だったけれど、それでも部活終わりにはへとへとになっていた。
現在は禁止されているらしいうさぎ跳びで、体育館内を三周、体育館のギャラリーをランニングで十周、素振りはフォアハンドを百回、バックハンドを百回やって、そのあと卓球台で球を打つ練習をした。ひと月に一回、隣で練習している男子卓球部の部長の三年生が、女子の練習を見てくれるのだが、彼の機嫌がいいときは素振りなし。機嫌が悪いときは三百回ずつになるので、その日になると彼の様子をうかがうのが習慣になっていた。
その後、私が三年生になって部長になったときは、自分がやりたくないので、うさぎ跳びは一周、ランニングは五周に減らした。新しく男子の部長になった同学年の子からは、
「ぼくは女子のほうの練習は見ないから、よろしく」
といわれたので、
「わかった」
と返事をして、女子だけで練習していた。
それまでよりは楽になったはずなのに、部活が終わるとそのままでは家までたどりつけないくらい、相変わらず疲れていた。重い体を引きずるようにして、家まで十五分ほどの道のりを歩いて帰っていたが、あるとき、その途中の住宅地に、町中華ができた。その店の前を通ると、いい匂いが漂ってくるし、お腹はぐーぐー鳴るし、その店の前は息を止めて通り過ぎていた。
ある日、近所の人から、その店がおいしいと聞いた両親が、食べに行こうといいだした。店では三十代半ばくらいの男性が一人で厨房にいて、赤ん坊を背負った女性が、割烹着姿で接客していた。出前担当には知的障がいがある長身の若い男性が一人いた。五十数年前には、一般の店舗で働いている知的障がい者を見たことがなかったので、私は驚いた。両親は「店主は若いのに懐が深い」と褒め、家族でラーメンなどを食べたら、それまで食べたことがないほどおいしかったので、その後は、何度も出前を頼んだり、食べに行ったりして、うちのお気に入りの店になった。もちろんその長身の男性がラーメンやチャーハンを届けてくれていた。
それで部活帰りである。体力を遣い果たし、オアシスを探して砂漠を彷徨っているかのような私にとって、それからその店がオアシスになった。家に着くまでお腹がもたず、店の前を通過してまっすぐ歩かなくてはいけないのに、前を通りかかると自然に曲がって店内に入っていった。学校の帰りに飲食店などに立ち寄ってはいけない規則があったかもしれないが、そんなことより空腹を満たしたい気持ちのほうが勝っていたのだ。
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