2024.3.13
浅草での味
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お稽古に通っているときに、私の息子くらいの年齢ながら、芸事では大先輩の兄弟子がいた。小唄の賞を受賞し、お弟子さんも増え、小唄の会を主催している。彼が住み込みで師匠と先生を助けていたことも、お二人にとっては心強かったはずなのだ。私は彼から連絡を受けたのだが、関わりのある人たちに訃報を告げるのも、大変なことだっただろう。
師匠は記憶力がよく、芸者さんに憧れていた子どものころの話や、念願の芸者さんになった話以外にも、生まれ育った浅草の話をあれこれとうかがった。冬の日だったと思うが、本を作ってくれた編集者と一緒に、先生と雑談をしていると、
「なべぞうをね……」
とおっしゃった。
「なべぞうって何ですか」
と聞くと、
「あら、知らない? それじゃ、今、頼んであげるから」
と席を立って、どこかに電話をしていた。するとしばらくして、私たち三人のところに、小さめの土鍋が三個運ばれてきた。
「これがなべぞうよ。遠慮なく食べてちょうだい」
師匠にはそういわれたが、まだ蓋が閉じている土鍋を見てもいったい何だかわからない。熱々の土鍋の蓋を開けると、すまし汁の中に、かまぼこ、ネギ、溶き卵と角餅が入っているのが見えた。「なべぞう」とは、「鍋雑煮」だったのである。
師匠は芸者さんを引退した後は、自宅で置屋を経営していた。今はどうかは知らないけれど、一部の芸者さんや芸者見習いで修業中の半玉さんは、置屋で寝起きをし、衣食住の面倒を見てくれる置屋の経営者の女性を「おかあさん」と呼び、親子も同然という関係性になるのだ。
そのような一般の住宅地とは少し違う場所でお稽古をしていたので、知らないことがたくさんあった。置屋ではもちろん食事も作るのだけれど、みんな忙しいので、出前を取ることも多い。師匠の自宅であるお稽古場の周辺には出前可の飲食店が多かった。私が子どものときも、店屋物といって、店から出前を取ったりしたが、コンビニやファミリーレストランができたりしたのも要因なのか、出前をしてくれる店もだんだん姿を消していった。しかし私がお稽古をしていた当時は、まだそういう店が浅草には残っていたのだ。
なべぞうを作ってくれた店も、実は甘味処だった。師匠のお宅の近所においしいと評判の蕎麦店もあり、師匠の亡くなったご主人が、入院中に、
「あの店の蕎麦が食べたい」
というので、病院に行くときには必ず持っていったと話していらした。
お稽古の時間よりも早めに行って、近所を歩き回るのも楽しみだった。路地に入ると、住宅地のなかにぽつんと、一見、古い木造住宅のように見えるのに、「出前いたします」と小さな看板のみが出ている店もあった。何の出前なのかはわからなかったが、芸者さんたちは知っているのだろう。営業していないようだったが、やはりごく普通の木造日本家屋で、「サンドイッチ」という看板が掲げられた店もあった。師匠にその話をすると、
「ああ、あったわねえ。サンドイッチの出前。何度か頼んだことがあったな。もうやっていないみたいだった? それじゃあ、店を閉めちゃったんだね。このあたりも昔からの店がどんどん無くなっていってねえ」
としみじみとおっしゃっていた。
その店のサンドイッチは、化粧をした芸者さんが、口を大きく開けなくても食べやすいように、幅が狭い短冊形にカットされていたのだそうだ。三角形にカットされているのと、短冊形にカットされているサンドイッチがあるが、その一般的な短冊形よりも、より細めの幅になっていたらしい。
お稽古ももちろん楽しかったのだけれど、浅草に行くのが楽しみだった。お稽古前に、あんパンだけで二十種類もある店で、行くたびに違うあんパンを買っていた。皮がふんわりしているどら焼き、大学芋、手焼きせんべい、炒り豆も買って帰っていた。
最近は外国人観光客が激増し、賑わっている浅草の映像をテレビでよく観る。お稽古に通っているときも、たくさんの観光客がいたので、混雑を避けて裏道を通り抜けていたが、画面で観る限りでは、そのときよりもずっと人が多い。店の入れ替わりが激しく、新しい店もたくさんできているようだ。浅草からは足が遠のいてしまったけれど、私が買い物をしていた店が、今もちゃんと残っているのかなと、師匠の葬儀からの帰り道にふと思ったのだった。
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次回は4月10日(水)公開予定です。