2025.6.13
アートに触れ、対話することで感性や記憶が再び動き出す――認知症当事者のための対話型鑑賞プログラム「アートリップ」【前編】
これらには、視覚・聴覚障害のある人とない人がともに楽しむ鑑賞会や、認知症のある高齢者のための鑑賞プログラムなど、さまざまな形があります。
また、現在はアーティストがケアにまつわる社会課題にコミットするアートプロジェクトも増えつつあります。
アートとケアはどんな協働ができるか、アートは人々に何をもたらすのか。
あるいはケアの中で生まれるクリエイティビティについてーー。
高齢の母を自宅で介護する筆者が、多様なプロジェクトの取材や関係者インタビューを通してケアとアートの可能性を考察します。
アートの「対話型鑑賞」とは作品を複数名で見て、感じたこと、考えた意見を対話を通して共有し、作品への理解を深めていく鑑賞方法。
この鑑賞方法を、認知症患者のケアの現場に取り入れた活動があります。
今回はNYのMoMAで先駆け的に行われていたこのプログラムを日本に「ア―トリップ」として導入した林容子さんに取材。
実際に取り入れている施設の様子もあわせて紹介します。
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アート作品を見ながら気づいたことを語りあう
認知症当事者とその家族などが、ともにアート作品を見ながら気づいたことや思ったことなどを自由に話し合う対話型鑑賞プログラムをご存知だろうか。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)が開発したこのプログラムを自ら翻訳して日本に導入したのは林容子さんだ。アーツ(美術・音楽・ダンス)の力を通して、日常では味わえない感動や創作の喜びをもたらし、人や社会を元気づける「ALIVE(いきいきさせる)」プログラムを展開する一般社団法人「アーツアライブ」の代表である。
2010年、ニューヨーク近代美術館で行われていた認知症当事者のための対話型鑑賞プログラム「Meet Me at MoMA」に心を打たれてトレーニングを受けた林さんが、日本人に合わせて独自に開発。2012年、アートの旅という意味を込めて「ARTRIP」(以下、アートリップ)と名付け、美術館をはじめ高齢者施設、病院、学校、企業研修などで展開し、好評を得てきた。
美術に対する知識がない人や、それまであまり美術館に行ったことがない人でも、いつの間にか会話に参加してしまう楽しいプログラムだ。現在はあらゆる人が一緒に参加でき、コロナ禍以降、オンラインでも実施。現在まで1万人以上が参加している。

認知症とは、さまざまな病気により、脳の神経細胞の働きが徐々に変化し、認知機能(記憶、判断力など)が低下して社会生活に支障を来たした状態をいう(政府広報オンライン/認知症知っておきたい認知症の基本より)。日本では、団塊世代が全員75歳以上の後期高齢者となる2025年には、認知症の有病者数は約700万人(65歳以上の5人に1人)と予測されてきた。
世界的に見ても認知症は誰でもなり得るものであり、ともに生きやすい共生社会が目指されている。そこで、患者に対して地域活動などで社会参加の機会を作り、人とのつながりや喜びをもたらす「社会的処方」という考えが欧米を中心に世界的に注目を浴びている。アートや音楽、演劇などの芸術療法や、スポーツ療法が取り入れられることが多く、「アートリップ」はそうした「社会的処方」の先駆けでもある。
アートリップは、アートコンダクターと呼ばれる案内人が質問を投げかけるスタイルで、約1時間かけて3枚程度の絵を1枚ずつじっくり見ていく。すると「普段話をすることのなかった人がいきいきと話し出した」「絵から連想して、懐かしい場所を思い出した」といった反応が起こる。一緒に参加した家族も「母に元気な笑顔が戻った」「そんなことを考える人だったのか」などと驚く声が聞こえる。
アーツアライブではこのプログラムを全国に普及し、一人でも多くの人に体験してもらうために、2012年からアートコンダクター養成講座も開催。認知症当事者が答えやすいような質問の仕方や、参加者の発言を拾いながら会話を回すファシリテーションの技術や心構えなどを学ぶプログラムで、初級講座を経て中級講座を修了した者がアートコンダクターに認定される。

アートに正解はなく、どんな言葉にも耳を傾ける
今回は、この「アートリップ」を取材するため、鎌倉市にある「グループホーム のぞみの家 鎌倉」に出かけた。グループホームとは、認知症専門の地域密着型施設で、少人数で共同生活を送りながら介護を受ける施設のこと。「のぞみの家 鎌倉」ではアートリップを毎月1回開催している。フロアが異なるために普段顔を合わせることがない人同士も、絵を見るという共通の話題で話ができる場にもなっており、参加者はみな楽しみにしているという。
施設のリビングにおじゃますると、高齢の男性4人女性3人が並んで椅子に腰掛けていた。アートコンダクターの山上真琴さんがテレビモニターに絵画作品の画像を映し出し、聞き取りやすい声で明るく話しかける。全員に目を配りながらも、一人一人の名前を呼び、その人に向かって語りかけながら、参加者の誰もが話しやすい場をつくっていく。
今回は「かけがえのないもの」をテーマに選んだ3作品を鑑賞。最初は作家もタイトルも見せず、作品だけを映し出す。1枚目は、5月の季節に合わせた山下新太郎の油彩画≪端午≫だった。家族の愛情や健やかな成長の願いを描いた作品である。
2枚目は、地域性も鑑みた歌川芳員の浮世絵≪東海道五十三次内 大磯 をだハらへ四リ≫だ。
「何が描かれていますか? 気づいた事、感じたこと、どんなことでも良いですよ」と山上さんが問う。画面中央に描かれた物体が何か気になる人がいて「足は虎のようだけど、体はなんだろう?」と特徴を観察。不思議な生きもののようだと想像を膨らませる。
それとは別に、「虎子石(とらこいし)」と描かれている文字に気づいた人もいた。さまざまな話が交わされた後、山上さんは「実は真ん中に描かれているものは、虎子石(虎御石)という石なんです。かつて大磯にいた『虎』という女性が不思議な力のある石として大事にし、今でも延台寺に祀られているそうです」と由来を語った。
「江戸後期は天災が多くあり、外国船も来るなど不安な世の中でした。この作品は笑いの要素もある作品で、芳員が人々に明るさや活気を届けたいなと思って手がけたものなんですね」などと解説を加える。ちなみに5月末には虎御石が年に1回のご開帳になるそうだ。

最後3枚目の作品はフィンセント・ファン・ゴッホの≪種まく人≫。
「どんなものが描かれていますか」と山上さんが問うと、「畑」「鳥が2羽」「こっちは林じゃないか」「真ん中に太陽」と、じぃっと見て目に止まったものを伝える参加者たち。
山上さんが「どのくらいの時間帯だと思いますか?」と問うと「朝日」「太陽が真ん中にあるからお昼じゃない?」「夕日が沈むところじゃない」と意見が分かれた。その間に女性二人が、畑の様子をみて「こちらがキャベツであちらがトウモロコシだ」、「いや麦畑じゃないか?」と盛りあがっている。

真ん中に描かれた人物を指し、「この人は何をしていると思いますか?」と山上さん。「男の人が畑に入ってキャベツを収穫しているところじゃないか」という女性もいれば「道に落ちていた酒を拾っている」という男性も。「真ん中の畔道の色が変わっているところに門があり、そこから(人が)出てきた」という思いがけない答えもあった。
山上さんは「ゴッホ はフランスの南、アルルに移住したことがあり、太陽の輝きに感動して、そこでたくさんの風景画を描いたんです」と話し始める。「種を撒いて、芽が出て、それがまた実ってという生命の循環の素晴らしさとか尊さをこの絵に込めたと言われています。ゴッホが一番希望に満ちあふれていた時期に描いた作品です。太陽の位置から時間帯を想像するなど、みなさんいろいろなことに気づいてくださいました」。
複数の情報を一度に話すと混乱を来すため、ゆっくりと短い言葉で一つ一つ尋ねる。さまざまな意見や感想が出たあと、それまでに出てきたことを振り返り、全体としてまとめていく。最後に3作品を一緒に映し出し、「どれが一番印象に残りましたか?」と山上さんが尋ねると、歌川芳員の浮世絵を指差して「毎年、うちのお父さんと大磯の海に行った」と思い出を話す女性がいた。また別の男性は「ゴッホの絵には哀愁がある」と語った。列車から見える風景を連想したらしく、「娘と旅行を計画しています」と待ちどおしい様子で穏やかに続けた。山上さんは「お土産話を聞かせてくださいね」と答えて、和やかにアートリップを終えた。
筆者はアート鑑賞の幅広さや豊かさを改めて感じた。ジャポニスムの影響を受けたゴッホは、浮世絵に描かれた日本を理想郷として思い描いていた。さまざまな人生を送ってきたであろう日本のお年寄りの語らいを、孤独な生涯を終えたゴッホに聞かせたらきっと喜んだに違いないと夢想する。
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