2022.11.19
大反響!3刷!!【村井理子ロングインタビュー後編】「子育てってひたすら傷つけられるんです」。“親離れ”への戸惑いと、自分を守るための方法
エッセイは反響が広まるほどに怖い
――エッセイの仕事が増えるのも、翻訳の仕事が安定してきたのと同時期ですか。
そうですね。新潮社の『考える人』で連載し始めてから、エッセイの依頼がどっと増えました。新潮社の編集者さんとは全然面識はなかったんだけど、ふと交差点で「村井理子に書かせろ」って突然浮かんで、依頼してくれたらしいですよ(笑)。
――幼い頃から書くのが好きだったと伺いましたが、エッセイはやはり最初から楽しかったですか。
依頼は嬉しかったですけど、最初はめっちゃ緊張して書きました。翻訳はお手本があるから、漏らさず訳せば完璧にできるでしょう。でも、エッセイは自分の頭の中のことを書かなきゃいけない。それはやっぱりめちゃくちゃ難しかったです。
――自分のことを書くのは不安もありますよね。
そうですね。自分のこともそうだし、私の場合は、家族のことも書くので大変です。でも、たまに「私生活の切り売りだ」って批判されることがあって、それにはちゃんと反論したいですね。「人間ってみんな切り売りして生きてませんか?」と問い返したい。
――どういうことでしょうか?
普通の仕事だって、自分の人生の一部を切り売りしているじゃないですか。経験にしろ、時間にしろ、肉体にしろ、才能にしろ、自分の持っているものを差し出して、その対価にお金もらうわけじゃないですか。それと私のエッセイの仕事は何も違わないだろうと思うんです。
――たしかにそうですね。それに切り売りというぐらいだから、切らない/切れない部分もあるでしょうし。
そうですね。そこで切ってない部分があることを悟られずに書くのも作家の技術ですよね。「切り売りしてる!」という批判は、ある意味「全部曝け出してる」って思わせることに成功してるからかもしれない。それなら嬉しいですね。例えば私は義母の認知症のことも書いてますけど、やっぱり全ては書けないですよ。ちょこちょこ書き進めながら、調整してるんです。エッセイは本当に難しいです。
――書くことに対する、ある種のロマンティックな幻想は根強いのかもしれないです。特にエッセイだと、感情の赴くままに書いているように想像してしまう。
なるほど。私の場合、エッセイっておそらくみなさんの想像以上に何度も何度も推敲してます。エッセイはさらっと読まれる文章だし、さらっと読まれるべきなんだけど、そのために書き手は練りに練っている。そうしないと主観が強すぎて、生々しくなる。もし「感情の赴くまま」に書いてたら、とても読めたものじゃないと思います。
――村井さんはご家族のことを、ほぼリアルタイムで書かれてます。未来に何が起きるのかわからないのに、そういう書き方をするのはすごく怖いだろうなと思います。読者の期待と、書けないことの間で引き裂かれるだろうなと。
読者の方々が、今か今かと待たれている圧はたしかに感じますよ。「次はどうくるんだ?」と常に試されている。その圧に過剰に応えてしまうことが怖いですよね。かといって、慎重になりすぎても読みものとしておもしろくない。そのバランスが難しいです。どこで止めるか、というのは常に意識して、編集の方ともよく話し合い、微調整を重ねています。反響は嬉しいですけど、広がれば広がるほど怖い仕事ですね。
――これからどんなエッセイを書きたいですか。
私も子どものことや義両親の介護を書いてますけど、他にもこのテーマで書いてる人はたくさんいるので、何かひねりを加えた形で書けたらなとはいつも思ってますね。
――例えば、突然死したお兄さんの暮らした多賀城市の部屋を片付ける数日間を描いた『兄の終い』は、お兄さんのことに留まらず、遺された人たちの話になるのが、ひねりとしておもしろかったなと、今ふと思いました。
ありがとうございます。
――遺された息子さんも、過去を受け止めながら生きている。
そうですね。めちゃくちゃ大きくなって、顔つきも兄そっくりなんですよ。子どもの成長はすごいですね。
――エッセイのひねりでいうと、ウェブサイト「よみタイ」連載の『実母と義母』はふたりの女性を並行して描く試みもおもしろいです。時代に翻弄された女性たちの魂を癒すようなエッセイだと感じています。
同世代の実母と義母の、対照的な人生を同時に書くことで、私たちより上の世代の女性たちを描けたらと思ってスタートした連載です。義母は経済的に恵まれていたけれど、家庭に入り、認知症になるまで夫に尽くした。一方、私の母はお金に苦労したけれど父の死後は特に自由に生きてきた。過ぎた時代の女性たちの生き方が、ふたりのコントラストから見えてくるといいなと思ってます。