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大関・北の富士、独立後の最初の場所で初優勝! 初対戦となった兄弟子、佐田の山と出羽海部屋への想いとは?

出羽海部屋への思い

話を破門後の初優勝に戻しましょう。

「支度部屋に戻ったらね、九重親方が勢い込んで、泣きながら支度部屋まで入って来て。もう泣いているんだよ。師匠が先に泣いて来たからね。先に泣かれて、こっちは泣くに泣けない。握手しても、なぜか涙は出なかった。写真が残っているよ、親方が泣いていて、俺はケロッとしているところ。
武蔵川の親方にも、すれ違った時に『おめでとう』って言ってもらってね。これは嬉しかったね。『おかげさんで……』ぐらいしか言えなかったと思うけど。でもね、俺自身は、初優勝といっても嬉しくはなかった。どこかに、手放しで喜んではいけないというね、そんな気持ちもあったんだと思いますよ。破門後の場所だから、恥ずかしくない成績を残したいという思いはあったけどね」

その後、優勝パレードを終えて宿舎に戻ると、すでに後援会の人で溢れかえっていました。

「今はホテルや宴会場で千秋楽の打ち上げパーティーを開く部屋も多いけど、当時はそれぞれの部屋での打ち上げだったよね。小さなお寺の宿舎で、十両優勝の松前山と一緒に、大騒ぎの祝勝会ですよ。そこで、ようやく『ああ、優勝したんだなあ』ってね。実感というものが湧いてきたかな」

昭和42(1967)年三月場所、幕内最高優勝は北の冨士。十両優勝は北の冨士とともに九重親方に従った松前山でした。まさに、ドラマのような「九重場所」となったのです。

「俺は入門からちょうど10年で出羽海部屋を離れるんだよね。それでも、こうして今も大相撲とつながっているとね、出羽海はやはり一番気になる部屋ですよ。俺と一緒に九重親方について行った松前山は今、北海道に戻って暮らしているんだけど、電話でいつも出羽海部屋の話をしますよ。出羽海部屋にいた若い頃の話とか、今の出羽海部屋の話とかね。頑張ってほしいってね」

この章の冒頭で、平成30年(2018)年七月場所、当時関脇だった御嶽海の幕内最高優勝に触れました。出羽海部屋の力士としては昭和55(1980)年一月場所の横綱・三重ノ海(57代)以来、実に38年ぶりの優勝。北の富士さんには並々ならぬ思いがありました。

「38年ぶり、長かったですよ。我々、出羽海のOBや関係者にとっては『待ちに待った』優勝ですよ。でも今ね、出羽海部屋の稽古を見ると、欲がないねえ。もうひとつもふたつも物足りない。力士の数も俺たちの時代とは違うから、活気の差は歴然としているけどね。それにしても、稽古場から伝わってくるものが感じられない。意欲が見えてこないよね」

たびたび、そうした苦言を呈するのも、出羽海部屋への思いがあればこそです。

「どうしても出羽海部屋の稽古場だけは、思いが他とは全く違ってくるんだよね。自分を育ててもらったということだけではなくて、やっぱり、うーん、何だろうね。『破門』という事実が、半世紀も経った今でも、何か乗っかっているのかな。だからね、出羽海部屋に入る時には、今でも正面玄関から入らないですよ。稽古を観る時だけではなくて、他の用事で訪ねる時も同じでね。通用口から入りますよ。部屋の横の入り口からね」

周囲の親方や関係者が、北の富士さんを今一度、出羽海一門の親方として受け入れようとする配慮も見られました。

「春日野親方(44代横綱・栃錦)がね、理事長の時代だったかな、こんなことを言ってくれたことがあったんだよね。『俺もよ、お前の出羽海への復帰をよ、一門にはかって、何とかしようと思ってきたんだけど、もう定年も近くなったしよ、もういいよな』ってね。つまり、九重部屋は、今は高砂一門だけど、もう一度、出羽海一門に戻してやろうという温情ですよ。実現はしなかったけどね。ただ、出羽海の後援会で『友愛会』ってのがあるんだよね。ここでね、北の富士を出羽海一門に復帰させてやろうという話が持ち上がったんですよ。で、全会一致で出羽海部屋に出入りが許された。だから、今は自由に出入りができるわけでね。それまでは行けなかったからね、出羽海部屋には。まあ、頼めば、部屋に入ることぐらいはできたと思うけどね。やっぱり自分自身の心の中で、線を引いていた部分があったよね」

画像は『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』より。
画像は『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』より。

師匠・九重親方

ここで、この人に触れておかなければなりません。北の富士さんにこれほどの決断をさせた師匠・九重親方(千代の山)はどんな人だったのでしょうか。

「俺が入門した昭和32(1957)年の一月場所で、千代の山さんはいきなり全勝優勝ですよ。後で思えば、この6回目の優勝が千代の山さんの最後の優勝なんだけどね。忘れもしないのが、そのときの副賞ですよ。森永製菓の『三色アイスクリーム』ってのがあってね、これをどんぶりで山盛り2杯も食べさせてもらった。嬉しかったねえ。この世界に入ってよかったってね。鮮明に憶えてる」

そこから2年、千代の山は昭和34(1959)年一月場所で引退となります。

「入門からずっと千代の山関に付いていた(付け人をしていた)わけだけど、性格も穏やかで優しい人だったよ。当然、横綱ですからね、若衆に指導をしたり、指示をしたりすることはありますよ。ただ、誰に対しても、大きな声を出したり、怒鳴ったりすることはない。手を上げることも一切なかったですよ。当時としてはとてもめずらしかったんじゃないかな。『兄弟子は、無理へんにげんこつと書く』なんて時代だからね。九重親方になってからも全く変わらなかったですよ。何よりも、いい意味でのお人よしっていうのかな、他人のために何でもできる人だった。
稽古が終わると一緒にちゃんこを囲んでね、とても気さくで陽気な人だった。冗談も言うしね。ただ、飲んで気分が良くなると、話が長くなる。とくに昔話が長いんだよね。でも、その話が面白い。若衆は料理を出したり酒を注いだりしながら、笑いながら聞いてる。
俺も、そろそろ席を立ちたいと思っても、師匠がしゃべっているんだから、そうもいかないんだよね。女の話や酒の飲み方、戦時中の相撲界の話まで。話の引き出しが豊富だから、話し始めると、2~3時間は止まらない。
稽古場を離れると弟子には甘かった。みんなを本当にかわいがってくれましたよ。やっぱり、破門されてでもついてきた弟子たちだから、かわいかったんですよ。つらい思いをさせたって感じていたんじゃないかな」

続きはぜひ単行本でお楽しみください

『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』刊行特集一覧

【「はじめに」試し読み】 死去の報道から1年。52代横綱・北の富士勝昭さんが上京した日に生まれた不思議な縁

【「1章 出会い」一部試し読み】 昭和32年1月7日の上野駅。「赤いダイヤ」が入った麻袋を持った北の富士少年の上京物語

【「4章 独立と初優勝」一部試し読み】 北の富士が独立後、最初の場所で初優勝! 初対戦となった兄弟子、佐田の山への想いとは?

【「5章 北玉時代」一部試し読み】 史上初の雲竜型と不知火型の土俵入りを披露。「北玉時代」と呼ばれた盟友・玉の海との粋すぎる友情物語

【「8章 語りの天才」一部試し読み】 妹、親友、行きつけの店主と女将が語る、素顔の北の富士の「粋」な男っぷり

【藤井康生さんインタビュー前編】 大相撲中継の名コンビだった52代横綱・北の富士勝昭さんとの交流と、ふたりをつないだ相撲愛

【藤井康生さんインタビュー後編】 「北の富士さんは生きる文献であり大辞典。その貴重な話でますます相撲が面白くなった。その魅力を見ている方に伝え続けたい」

発売即重版。3刷も決定! 

2024年11月12日、82歳での別れから1年。
「第52代横綱」として、「千代の富士と北勝海、2人の名横綱を育てた九重親方」として、「NHK大相撲中継の名解説者」として、昭和・平成・令和と3代にわたり、土俵と人を愛し続けた北の富士勝昭。

大相撲中継で約25年間タッグを組んだ、元NHKアナウンサーである著者が書き残していた取材メモや資料、放送でのやりとりやインタビューなどを中心に、妹さん、親友、行きつけの居酒屋の店主など、素顔の故人を知る人物にも新規取材。「昭和の粋人」、北の富士勝昭の魅力あふれる生涯と言葉を、書き残すノンフィクション。

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新刊紹介

藤井康生

ふじい・やすお/昭和32年1月7日生まれ、岡山県倉敷市出身。岡山朝日高校、中央大学法学部を経て、昭和54年4月、日本放送協会(NHK)入局。43年間のアナウンサー職を経て、令和4年1月、NHKを退局。大相撲は昭和 59年七月場所から約 38年間担当した。現在はフリーアナウンサーとして「ABEMA大相撲 LIVE」で実況を担当。公益財団法人日本相撲協会記者クラブ会友、JRA日本中央競馬会記者クラブ会友など多方面で活躍。
著書に『土俵の魅力と秘話』(東京ニュース通信社)がある。

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