2025.11.20
死去の報道から1年。52代横綱・北の富士勝昭さんが上京した日に生まれた不思議な縁 【藤井康生『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』試し読み】
今回は、1年前のその日の想いも描かれている本書の「はじめに」を一部修正して公開します。ぜひご一読ください。
(構成/「よみタイ」編集部)
死去の報道からちょうど1年
「粋」な言動や佇まいは追随を許さない存在でした。こんな人生を送ってみたい、常にそう思わせる人でした。
52代横綱・北の富士、竹澤勝昭さん。
今一度、放送席でご一緒したかった。今一度、酌み交わしながら、笑って昔話を聞いていたかった。今も未練でいっぱいです。
令和6(2024)年11月20日の夜でした。テレビの速報に愕然としました。
「北の富士勝昭さん死去」
頭の中が真っ白というのはこのことです。茫然としたまま、しばらくの時間が流れたと思います。
北の富士さんは11月12日の午前に旅立たれたそうです。報道に接するまで、私は知りませんでした。時は十一月場所の最中です。遺族のみなさんには、いや何よりもご本人に「大相撲の盛況に水を差したくない」、そんな強い思いがあったのだと思います。
北の富士さんが亡くなった事実は当初、ごく一部の関係者だけにしか知らされていませんでした。しかし、場所も終盤に入った11日目の夜、訃報は表に出ました。
それから数日間、これまでの北の富士さんとのさまざまなやりとりが脳裏に浮かびました。放送席での機知に富んだ受け応え、飲みながら面白おかしく語られる現役時代の逸話、表には出せないような昭和の時代の裏話が、次々に甦りました。しかも北の富士さんの声で、頭の中を駆け巡ります。
巨星墜つ。
偉大な人が去ってしまった失望感は、なかなか消えることがありません。あれから、もう1年が過ぎようとしています。それでも、大相撲中継を観たり大相撲の仕事に関わったりするたびに、北の富士さんのことを思い起こします。

不思議な縁
初めてお会いしたのは、北の富士さんが九重親方の時代でした。昭和60(1985)年3月です。
弟子の千代の富士は横綱(58代)に昇進して3年半、11回の幕内最高優勝を重ねていました。保志(のちの61代横綱・北勝海、現・八角理事長)は、兄弟子である千代の富士の胸を借りて三役に定着し始め、大関の番付へと向かっている時です。
九重部屋の朝稽古を取材に行きました。その日は、稽古の後、親方に「NHKの藤井と申します。大相撲の中継放送に関わることになりました。よろしくお願いします」と、名刺を差し出しながら挨拶をした程度だったと思います。
それから何度か、九重部屋にお邪魔しました。数年が経った頃だったでしょうか。ある読み物で、北の富士さんの生い立ちから横綱として活躍するまでの実話を目にしました。その中に、このような記述がありました。
「昭和32(1957)年の正月、竹澤勝昭少年はふるさと旭川を後にし、青函連絡船、そして夜行列車と乗り継ぎ、1月7日の早朝、上野駅に降り立った」
こんな一文でした。それはそれは驚きました。北の富士さんが初めて上京した日、昭和32年1月7日は、まさに私自身が生まれた日なのです。しかも両親から聞かされていたのは、その日の「早朝5時45分」の誕生でした。私が岡山県児島市(現・倉敷市)で「おぎゃあ」と産声を上げた頃、14歳の勝昭少年が相撲界に入門するために上京していたのです。
なんという偶然でしょうか。「次に九重親方にお会いした時は、必ずこの話をしよう」と心に決めました。
昭和63(1988)年9月13日の午前、東京の国技館に近い九重部屋を訪ねました。九月場所中でした。千代の富士の五月場所からの連勝記録が30 近くにまで伸びていました。大鵬(48代横綱)の45連勝、さらには双葉山(35代横綱)の69連勝へと夢が広がっていく最中でした。
ソウルオリンピックの開幕直前でもありました。当時、私は大阪放送局勤務でしたが、ソウルオリンピックのスタジオキャスターを務めるため、出張で上京していました。
朝稽古の後、北の富士さんに勧められて、ちゃんこをご馳走になります。前年に横綱昇進を果たしていた北勝海は、腰痛が悪化し長期の休場中で、稽古場にはいませんでした。
同じテーブルには、北の富士さんと千代の富士、さらに後援者の方がふたり座っていたと記憶しています。ちゃんこをいただいた後、テーブルを離れたところで、北の富士さんに上京の日の話を向けました。
「えっ? 藤井さん、その日に生まれたの? へー、1月7日の朝? そうなの。これは大変な奇跡だねえ。いやあ、縁があるねえ」
驚きを感じてもらっただけではなく、感激してもらったような気がして嬉しくなりました。ところが、そこで話を終わらせないのが、北の富士さんのすごさです。
「あの日はねえ、大変だったんだよ、うん」
物語が始まります。
「東京を知っているおじさんに連れられて、旭川から汽車に乗ってね、函館まで行くでしょ。そして青函連絡船ですよ。これがもう、揺れたの何のって。冬の津軽海峡は時化るんだよね。〝冬景色〟なんて悠長なことを言っている場合じゃないよ」
石川さゆりさんの『津軽海峡・冬景色』が大ヒットして10年余りが経っていました。
「いや、もう死ぬかと思ったよ。14歳でしょ。元気なつもりでいたけど、青森に着いたら立っていることもできなかった。ふらふらだったねえ。それから夜行列車に乗っけられたけど、買ってもらった駅弁も食べる気がしなかったよね。何時間、乗ったんだろうね。揺られ疲れて、ずいぶん眠ったと思うよ。上野に着いたら、少し明るくなってた……」
さて、この物語の続きは本編でお楽しみください。本編も、北の富士さんの語りをふんだんに盛り込みながら展開させていきます。
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