2025.11.29
昭和32年1月7日の上野駅。「赤いダイヤ」が入った麻袋を持った北の富士少年の上京物語【藤井康生『粋 北の富士勝昭が遺した言葉と時代』試し読み】
今回は、 「はじめに」でも少し言及していた北の富士さんの上京の日(この日は著者の誕生日でもあった!)について、本書の「1章 出会い」の一部を修正して公開します。
(構成/「よみタイ」編集部)
北の富士さんの「ちょっと出てくる」の意味
北の富士さんとの出会いは、昭和60(1985)年三月場所の最中でした。
私はNHK大相撲中継の一員となって、朝稽古の取材も自由にできるようになっていました。千代の富士が横綱(58代)に昇進して4年目です。優勝回数も2桁に乗せ、充実期を迎えようとしていました。
この時、生まれて初めて、横綱の稽古を目の前で観ました。後で思えば、場所中でしたから、横綱・千代の富士にとっては軽く汗を流す程度だったと思います。それでも、その迫力に圧倒されたのを憶えています。
弟弟子の保志(のちの61代横綱・北勝海、現・八角理事長)は三役に定着し、大関の地位が近づいてきている時です。準備運動の後、ふたりが数番だけ相撲を取りました。バチーンとぶつかり合う音にも度肝を抜かれました。
稽古が終わり、北の富士さんに名刺を差し出し挨拶をすると、気さくな言葉が返ってきました。
「ああ、こちらこそよろしく。NHKには、いろんな先輩がいるからねえ、話を聞いて勉強してくださいよ。うちの稽古場で良ければいつでもいらっしゃい。場所中じゃないほうが、稽古場らしくていいと思いますよ」
この程度の会話でしたが、小学生の頃からテレビで観ていた横綱と、初めて面と向かって話をしました。しかも、颯爽と土俵に立っていた、あの横綱・北の富士です。今の言葉でいえば、強烈な「オーラ」に圧倒される思いでした。緊張のあまり、名刺を差し出す手も、少し震えていた気がします。
それから2年ほど経った頃のことです。北の富士さんにも「NHKの藤井」と覚えていただき、本場所中や稽古場でも、ある程度の会話はできるようになっていました。
さて、昭和62(1987)年三月場所前、当時、大阪府羽曳野市にあった九重部屋の宿舎にお邪魔して、朝稽古を取材していました。上がり座敷の中央には、北の富士さんが胡坐をかいて、稽古を見つめています。この日は、君ヶ濱親方(元関脇・北瀬海)の姿はありません。まだ幕下以下の「若衆」と呼ばれる力士たちが、次から次へと土俵に入り、泥だらけになって汗を流していました。
そこに突然、横綱・千代の富士が姿を見せます。すると、稽古場の空気が一変しました。大関の北勝海や他の力士たちが、すかさず「まーっし」と挨拶をします。「おはようございます」の語尾の「まーす」だけを発音する相撲界独特の挨拶の言葉です。
千代の富士は、上がり座敷の中央に座る師匠に「おはようございます」と挨拶をした後、土俵の外でゆっくりと体を動かし始めました。それと同時に、北勝海をはじめ孝乃富士、富士乃真といった関取衆が順に、柄杓の水を千代の富士に差し出します。「今日も胸を借ります。よろしくお願いします」、そんな意味を込めた「力水」です。
千代の富士は、口に含んだ少量の水を足元に吐き出すと、おもむろに準備運動に入りました。広げた大きめのバスタオルの上で股割り、そして柔軟体操、その後ゆったりと四股を踏みます。そして、すり足、てっぽうなど、いつもの念入りな動きです。
それから、わずかな時が流れました。すると、座敷の中央に胡坐をかいていた北の富士さんが、突然立ち上がります。そして、少し後ろに座っていた私に話しかけます。座敷には、後援者や近所の人たち十数人が腰を下ろし、シーンとした中で稽古を見つめていました。
「ちょっと出てくるから、藤井さん、稽古を見ていて……」
それだけ言い残すと、稽古場を出て行きました。「ちょっと出てくる」という言葉から、ほんの少しの時間だと思っていました。ところが、30分経っても40分経っても帰ってきません。
1時間以上は経過していました。千代の富士が土俵に入り、孝乃富士や富士乃真を相手に稽古を始めた頃です。ようやく北の富士さんが稽古場に戻ってきました。トレーニングウェアに帽子を被り、タオルで汗を拭いながらの再登場です。稽古場の上がり座敷で稽古を見学する人たちのほとんどが、その姿を見てあっけに取られていました。
稽古の後、親方に訊きました。「親方、ジョギングですか? 稽古中に?」
「うん、まあちょっと走ったり歩いたりね。稽古中だからですよ。俺が、稽古の最初から最後までじぃーっと見ていたら、力士たちも気持ちが休まらないでしょ。『俺がいない間はサボっていいよ』っていうわけじゃないけどね。何日かに1回はわざと姿を消すんですよ。そのへんは、みんなわかってる。まあ、横綱(千代の富士)もいるし、任せておけば大丈夫だからね。こう見えても、いろいろ考えているんだよ」
まさに北の富士さんの指導理論の一端を見たような気がしました。横綱・千代の富士が引退し九重を継いだ後、何度も師匠の北の富士さんについて話を聞く機会がありました。
千代の富士は現役時代から、常に「理想の親方像」として北の富士さんを見ていました。
「親方(北の富士さん)は、弟子をその気にさせるのがとても上手かったね。とくに若い頃、稽古場で俺自身も納得のいく相撲が取れた時、『いいんだよ、それでいいんだよ。その相撲が取れたら、すぐに白まわし(関取)だよ』と言って持ち上げてくれた。褒め上手なんだよ。そうするとこっちもその気になるんだよね。自信も湧いてくる。あまりガミガミ言われた憶えもないし、自由な雰囲気を作ってくれていたと思う。やることだけきちんとやっておけば、遊びすぎても怒鳴られることはなかったよね。見ていないふりをしていながら、すべてわかっている。お見通し。だから、俺たちも余計に、羽目を外し過ぎないように気をつけていたのかもしれないよね。まあ、懐の深い親方だよね」
北の富士さんについて語る時の顔には、ウルフと呼ばれたあの鋭いまなざしはありません。笑顔を見せながら、時にはあきれたような表情を浮かべながら述懐してくれました。

赤いダイヤ
そうそう、「はじめに」で触れた、北の富士さんが上京した時の物語、その続きを記しておかなければなりません。北の富士さんの上京日に、私が生まれたことを初めて伝えた時のことです。
「えっ? 藤井さん、その日に生まれたの? へー、1月7日の朝? そうなの。これは大変な奇跡だねえ。いやあ、縁があるんだねえ」
そこから話は広がります。
青函連絡船に「死ぬかと思った」ほど揺られ、たどり着いた青森。そこから夜行列車に乗り、上野駅を目指しました。
「14歳でしょ。元気なつもりでいたけど、青森に着いたら立っていることもできなかった。ふらふらだったねえ。そこから夜行列車。疲れてずいぶん眠ったと思うよ。上野に着いたら、少し明るくなってた。ところが、ここで失敗しちゃってねえ。改札口を間違えて、動物園側に出てしまった。坂があったんだよね。そこですってんころりんですよ。旭川を出る時におふくろから白い麻袋を3つ渡されて担いできた。転んだ瞬間に、そのうちのひとつをバアーっとぶちまけてしまって……。中身は、小豆ですよ。当時『赤いダイヤ』と言われて、それはもう高価なものだったんですよ」
雪が積もっていたわけではありません。
「旭川で下駄の裏に鋲を打ってもらってね。それが裏目に出たかな。坂道で滑ったんだよ。小豆の3つの袋、ひとつはこれから世話になる出羽海部屋に、ひとつは相撲界に誘ってもらった千代の山関に、そしてもうひとつは東京まで案内してくれたおじさんの知り合いで、これからお世話になる人に……。金もないのにねえ、おふくろが持たせてくれた土産だったんですよ。そのままにしておけないでしょ。大変なことになったと思いながら、少しでもと思って、散らばった小豆を集めようとした。そうしたらね、上野駅に向かう人、改札口から出てくる人、通勤の人たちが大勢集まってくれて、一緒になって手伝ってくれてね。ぶちまけたひとつの袋にかなりの小豆が戻ってきた。砂もずいぶん混ざってたけどね」
当時の情景が目に浮かびます。北の富士さんの昔話には、惹きつけられる技があります。早くその先を聞きたくなります。
「最後まで残って小豆を集めてくれたおじさんが、声をかけてくれてね。『にいちゃん、歳はいくつだ?』『14歳です』『学生服に下駄か、背が高いなあ。ん? ひょっとして相撲に行くのか?』『はい、これから出羽海部屋に入門します』『そうか。俺、相撲が大好きなんだよ。頑張れよ。名前は何ていうんだ?』『竹澤勝昭です』『そうか、竹澤くんか。わかった。応援してやるぞ。強くなれよ』ってね。もうねえ、涙をこらえるのに大変だったですよ。旭川を出る時に、『東京は怖いところだから気をつけろ』ってね、さんざん言われたけど、いきなりいい人ばかりでね。安心したのを憶えてますよ」
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