2026.2.8
大関・北の富士、独立後の最初の場所で初優勝! 初対戦となった兄弟子、佐田の山と出羽海部屋への想いとは?
今回は、本書の「第4章 独立と初優勝」の一部を編集してお届けします。北の富士さんが「相撲人生の中で最大の出来事」と何度も口にしていた、昭和42(1967)年の「出羽海部屋からの独立」後の初優勝の物語です。
(構成/「よみタイ」編集部)
運命の初対戦と初優勝
そんな独立劇を乗り越えて、昭和42(1967)年三月場所を迎えます。この15日間にも、北の富士さんが生涯忘れることのできないドラマがありました。
「昭和41(1966)年の九月場所後、バタバタで大関に昇進してから、俺も世間の目が気になるよね。だって『まさかの大関昇進』ですよ。世の中には『甘すぎる昇進』なんて言う人が大勢いたからね。大関昇進を認められていないような、そんな雰囲気もあった。
しかも、新大関の九月十一月、年が明けて一月、3場所続けて、10勝5敗ですよ。『クンロク(9勝6敗)』とは言われないけど、大関としては最低ラインだよね。
それでもって、またあの頃は大鵬さんが強すぎた。言ってみれば、大鵬さんの2度目の全盛期ですよ。ちょうど俺が大関に上がった頃、大鵬さん、6場所連続優勝だったかな。それが大鵬さん自身、2度目の6連覇だった。優勝回数もあっという間に20回を超えてね。
そこにもってきて、柏戸、佐田の山っているしね。佐田の山さんには、稽古でいつも胸を借りていたから、その強さはわかっているわけでしょ。その佐田の山さんでさえ簡単に優勝できない。そんなところに俺が割り込んでいけるわけがないよね。
ところがね、何だったんだろうね。あの場所は、何か目に見えないような力があったんだよね。火事場の馬鹿力じゃないけど。それはもう、勝った中にも危なっかしい相撲がいくつもあった。負けたと思った相撲でも、奇跡的に土俵際で粘って残してね、なぜか勝つんだよ。『また勝っちゃった』ってね。自分でも信じられないような相撲が何番かあったね。
俺にはそんな粘っこいところはないんですよ。だいたい何にしても淡白な方だからね。(小指を立てながら)これに対してもね。あっさりしているんですよ」
奇跡的な白星もありながら、初日から12連勝として迎えた13日目。11勝1敗で追う大鵬との対戦でした。
「実はね、この場所前に、大鵬さんのところに胸を借りに出稽古に行っているんですよ。そのときに7連勝か8連勝したんだ、うん。で、大鵬さんが途中でね、『おまえどうしたんだ。すごく元気だな。今日のところは、このぐらいで勘弁してくれ』ってね。そもそも、大鵬さんに胸を借りても、10番に1番勝てるかどうかだったんだよ。大鵬さんが連敗することなんて、稽古場でも見ることはなかったからね。その大鵬さんが『もう勘弁してくれ』なんて普段は言わないですよ。多少、冗談っぽくだったかもしれないけどね。でもねえ、自信はついたよね。それは確かだと思う」
ところが、大鵬の強さを改めて思い知らされます。
「13日目はね、『今回は勝てるかもしれない。いや、絶対に勝てる』って、自分に言い聞かせて臨んだと思うよ。めずらしく自信をもってね。でも、やっぱり全く相撲にならなかった。すぐに左四つに組み止められてね。いつもの『あっさり』ですよ。何もできなかった。見えない力も、大鵬さんの前では役に立たなかったねえ。『やっぱり大鵬は違う。偉大な横綱だなあ』ってね。改めて感じたよね。他人事みたいにね」
続く14日目、いよいよ運命の日を迎えます。常に胸を借り、稽古をつけてもらった兄弟子、横綱・佐田の山との対戦です。
昭和40(1965)年に「一門系統別総当たり制」が廃止され、「部屋別総当たり制」となっていました。部屋が異なれば佐田の山と対戦するのは必至です。もっとも、出羽海一門から破門された九重部屋は、この時すでに高砂一門ですから、「一門系統別総当たり制」が続いていても対戦は組まれたはずです。
呼出の声に促されて、西から横綱・佐田の山、東から大関・北の冨士が土俵に上がります。蔵前国技館は、異様な雰囲気に包まれました。
「仕切りを繰り返す最中も、何か上の空って言うのかな、集中できないんだよね。まるで、悪い夢でも見ているような。嫌な気分……うーん、というのとも違うかな。かと言って、いい気分なわけはない。闘志が湧いてくるなんてこともない。『夢だったらいいんだけどなあ』って考えながら、目も合わせず仕切っていたと思うねえ。
でもね、土俵下の呼出に『時間です』って言われた時には、ガッと何か、目が覚めたようにね。本能なのかな。
立合い、思いっきり当たっていったと思うよ。左が入って一気に持って行った。ところが、佐田の山さんにうっちゃられた。土俵際、もつれてね、微妙だった。ちょっと俺に分があるかなと思ったけどね。軍配は俺に上がった。しかし、物言いですよ。審判の協議が始まった。待つ間が長いんだよ。すんなり、そのまま軍配通り終わってくれと願っていたねえ」
その願いもむなしく、協議の結果、取り直しとなります。国技館が揺れるような歓声を耳にしながら、胸中は複雑でした。
「悪夢ですよ。よりによって佐田の山さんと、なぜもう一番取らなきゃならないのか……。運命を恨みましたよ。でも、取り直しと決まってしまった。もう一丁、取るしかない。仕方がないよね。取り直しの仕切りも目を合わせることなくね。そして時間一杯。思いっきりぶつかったらまた左が入った。そして一気に出たんだよ。土俵際、今度も佐田の山さんの突き落としが来た。でも、もたれ込んだ。土俵下の審判を見たけど、物言いはない。勝ったんだよね。勝てた。勝ち名乗りを受ける時も、茫然って感じだったかな。しかし、不思議なことはあるもんだねえ。稽古場では20番取って2~3番しか勝てないのにね。そのときばかりは、なぜか勝ってしまうんだからねえ。信じられない気持ちでしたよ。それよりも何よりも『終わってよかった』。うん、その気持ちのほうが強かったな。だから、はっきり言って、何の喜びも、何の感動もなかったね」
この日、北の冨士と優勝を争っていた大鵬が柏戸に敗れて2敗となります。そして、翌日の千秋楽、北の冨士は柏戸を肩透かしで破り、大関4場所目、破門独立となった最初の場所で幕内初優勝を決めました。
「このとき、結び前に優勝を決めて、勝ち残りで土俵下に腰を下ろすんだけど、喜びが湧いてくるわけでもないんだよね。感激というものがないんですよ。最近のお相撲さんだったらタオルで涙を抑えたりするよね。でも全然、こみ上げてくるものもなかった」
兄弟子・佐田の山
複雑な気持ちで支度部屋に引き上げた時、兄弟子の佐田の山とすれ違います。
「西の方屋でね。佐田の山さんに道を譲ろうとしたら、佐田の山さんが『おめでとう』と言ってくれた。あのひと言、佐田の山さんの太くて小さい声だったけど、今も忘れられないねえ。前日の対戦は悪夢だったけど、あの言葉は本当に嬉しかった。そこで、少しジーンときたね」
佐田の山の引退はこの翌年、昭和43(1968)年三月場所でした。4日目に高見山、5日目に麒麟児(のちの大関・大麒麟)に敗れ、2勝3敗となったところで引退を決意します。直前の、昭和42(1967)年十一月場所、翌43(1968)年一月場所と連続優勝を果たした横綱です。しかし、次の三月場所で序盤黒星が先行すると、突然の引退です。当時、私は小学5年生でした。大相撲が大好きで、場所中は放課後の寄り道もせず、一目散に帰宅してテレビにかじりついていました。三月場所6日目、佐田の山の引退をテレビで知りました。子ども心にも、あまりにもあっけなく信じられない幕引きに映りました。
この仕事を始めて、佐田の山さんと話ができるようになった時に、引退の時の心の内を訊いてみました。
「新聞や雑誌が当時、『4日目に、高見山に負けたことで引退を決意した』というふうに報道していたけど、それは違うんですよ。そうじゃない。もしも、高見山に負けたのが引き金だったら、その日に辞めていますよ。実はね、その1年も前から引退を考えていたんですよ。1年前の三月場所、出羽海部屋から出て行くことになった北の冨士が優勝したでしょ。その14日目に、本場所で初めて北の冨士と対戦して、取り直しになったけど、結局負けてしまった。そのときですよ、引退が頭に浮かんだのは……。稽古場であれだけ叩きつけた弟弟子に負けてしまった。取り直しも含めて2番取って、どちらもその内容は負けた相撲ですよ。あのときに『もう終わったな』と思いましたよ。北の富士本人には話したことはないけどね。事情があって、そこで引退とは言えませんでしたがね」
この佐田の山さんの証言を、北の富士さんに話したことがあります。
「えっ。そうなの。知らなかった。初めて聞いた。佐田の山さん本人からも、そんな話は聞いたことがないなあ。そう言われれば、確かに佐田の山さんって人は、そんなところがあるかもしれないねえ。あれは、佐田の山さんが新大関の場所だったかな、学生相撲から来た豊山(のちの時津風理事長)と対戦するんですよ。ここで突き倒されて負けた時に、『辞める』って大騒ぎになったんだよ。負けたその日ですよ。『こんなみっともないことはない』ってね。だから、相撲に美学を持った人だったんだね」
そして、己にも厳しい兄弟子の姿を思い起こすように、こんな話もしてくれました。
「ある時、稽古場でね。まあとにかく、稽古は緩めない人だから。その日もがんがんやっててね。俵に引っかかったのか、足の親指の爪が剥がれそうになったんですよ。そうするとね、そのぶらんぶらんとなった爪を、自分で引きちぎってね。血が噴き出すんだけど、若衆に『おい、包帯持って来い』ってね。水で流して包帯を巻いて、また稽古を続けるわけですよ。そんな人ですよ。俺なんかには絶対にできない。血を見たら倒れそうになるもん。自分で爪は引きちぎれないよね。他人にちぎってもらうのも嫌だけど」
北の富士さんが出羽海部屋を思い続ける中での、重要な登場人物のひとりは、間違いなく50代横綱・佐田の山です。佐田の山さん自身も「部屋が別になって、北の富士との対戦が何よりも嫌だった」と回想しています。

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