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【佐藤賢一緊急特別寄稿】世界史から見るウクライナ情勢「ウクライナは引かない ロシアが引くしかない」

タタール人の軛

 それから「タタールのくびき」、つまりはモンゴル人のキプチャク・ハン国により、二世紀の隷属状態に置かれるのは同じである。が、モスクワ大公国は徐々に力を蓄えて、十五世紀にはその排除に成功した。南のビザンツ帝国がオスマン帝国に滅ぼされると、東ローマの帝冠の権威を受け継いで、いわゆるロシア帝国に成長する。キリスト教も受け入れていたが、この時代にギリシャ正教会における中心的役割も、モスクワ総主教が引き継いでいる。
 キエフのほうだが、形ばかり大公は残りながら、やはり再起は容易でなかった。モンゴル人が退潮したあとも、隣国のポーランド、リトアニアの支配に甘んじることになった。キエフ≒ウクライナが自分の国を失くしたのは、このときなのだ。ロシアが出てくるのは十七世紀からで、はじめはポーランド・リトアニアとともにウクライナを分割し、十八世紀になってから、それを独占的にロシア帝国に吸収した。
 それでもウクライナ人は同じ土地に住み続け、またウクライナ語という独自の言語を守りながら、自分たちのアイデンティティを失わなかった。モンゴル軍に破壊され、ポーランド、リトアニアには支配されたかもしれないが、ロシアに負けたわけではない。そう考えて、心根では決して屈従することなく、それどころか独立の機会を窺い続けた。
 実際、ロシア帝国が革命で倒壊した一九一七年には、これを好機とウクライナ人民共和国を宣言している。が、それも一九年にはウクライナ社会主義共和国に変わり、一九二二年にはソビエト連邦に組みこまれた。そのソ連が崩壊して、ようやく念願を果たしたというのが、一九九一年のウクライナ独立だったのだ。
 もう二度とロシアに支配されたくない。かかる思いは、宗教界の動きにも看取される。独立ほどない一九九六年から、キエフに総主教座を置こうという運動が始まるのだ。十六世紀このかた、ウクライナの教会もモスクワ総主教の傘下に入れられていたが、もうロシア人の教会には従いたくないということだ。自分たちのキリスト教はギリシャ正教として受け入れたものであって、ロシア正教ではない。ギリシャの北では、ウクライナこそ最初のキリスト教国である。かかる意識が今も強烈に働いているのだ。

キエフの聖ソフィア大聖堂。1037年に建立された。©Ruslan Kalnitsky/Shutterstock
キエフの聖ソフィア大聖堂。1037年に建立された。©Ruslan Kalnitsky/Shutterstock
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佐藤賢一

1968年山形県鶴岡市生まれ。山形大学教育学部卒業。東北大学大学院文学研究科フランス文学専攻博士課程単位取得満期退学。
1993年『ジャガーになった男』で第6回小説すばる新人賞受賞。99年『王妃の離婚』(集英社)で第121回直木賞受賞。2014年『小説フランス革命』(集英社)で第68回毎日出版文化賞特別賞受賞。2020年『ナポレオン』(集英社)で第24回司馬遼太郎賞受賞。主にヨーロッパ史を題材とした歴史小説を多く手掛けているが、近年は日本、アメリカを舞台とした作品も発表し舞台化されたりなど話題となる。日本語のみならず、フランス語などの外国語文献にもあたり蓄積した膨大な歴史的知識がベースの小説、ノンフィクションともに評価が高い。
著書に下記などがある。
<小説>
『傭兵ピエール』『双頭の鷲』『カルチェ・ラタン』『オクシタニア』『黒い悪魔』『褐色の文豪』『ハンニバル戦争』『ナポレオン』『女信長』『新徴組』『日蓮』『最終飛行』ほか。
<ノンフィクション>
『英仏百年戦争』『カペー朝』『テンプル騎士団』『ドゥ・ゴール』『ブルボン朝』ほか。
<漫画原作>
『傭兵ピエール』『かの名はポンパドール』

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