2019.2.23
2日間のギャラは50万円!? 80年代後半から始まった”レースクイーン・バブル”は、こんなにスゴかった!
ケタ違い!? バブル期のレースクイーンの出演価格とその待遇とは!?
時代は90年代へ。
一般的に、91年~93年がバブル崩壊とされているが、レース業界でのバブル景気は勢いがまだ続いていたという。和田選手が当時を振り返る。
「90年ごろから、ゲームメーカーのカプコンさんがスポンサーとして入ってくれて。91年、大ブレイクしたゲーム『ストリートファイターⅡ』とコラボしたんですよ。数千万円かけて、僕のプロモーションビデオを作ってもらったりしてね。キャンギャルもずいぶんそのチームから輩出しましたよ。ギャラもよかったです。たしか1レース(予選日と決勝日の2日間)で、僕らレーサーは150万円。キャンギャルのほうは50万円が相場で、安くても、20万円とかだったはず。今にして思えば、ケタ違いでしたね」
一方で、レースクイーンはどう感じていたのか。
93年のコスモオイルレーシングギャルを皮切りに、94年にはタイヤメーカーのFALKEN GirlといったF3000のカテゴリー、そして95年、二輪の日清カップヌードルサーキットメイトなどで、イメージガールとして活躍した舘野清美さんは語る。
「93年の時点でも、待遇は素晴らしくよかったです(笑)。1レースのギャラ相場は10万円単位でした。現在とはひとケタ違ってたわけです。当時のレースクイーンは、キャンギャルとも呼ばれていたように、企業の“顔”として、今のビールメーカーのイメージガールのような役割も兼ねていたんですよ。私が担当していたコスモ石油さんの場合は、特約店のパーティーや社員表彰式に呼ばれたり。ポスター撮影のためにロケを組んでもらったりとか。全戦ではなかったけど、サーキットに私たち専属のヘアメイクさんまでつけていただいたり、ロゴが入った特製の移動用ボストンバッグも支給されていました。しかも、ミニポーチまでついてるっていう。いたれりつくせりでしたね」
オーディションもメジャー広告代理店が取り仕切り、大がかりだったという。審査は何段階にも及び、最終ではカメラテストも行われたのだとか。CMさながらである。当然、各プロダクションも気合を入れて、“勝負ダマ”の人材を送り込んだ。
「飯島直子さんをはじめ、大ブレイクした先輩方がレースクイーン出身者ですからね。わたしも当時所属していた事務所からは、『知名度を一気に上げて、芸能界でブレイクするには受けたほうがいい』と勧められました。サーキットに行けば、女性ファッション誌『Can Cam』のモデルさんもいたりして、レースクイーンのステータスは別格だったと思います」(館野さん)
80年代後半から始まった“レースクイーン・バブル”が終わりを告げたのは、90年代後半のこと。サーキットの状況も一変したという。ふたたび、舘野さんの話。
「わたしが現役を退いて、レースクイーンたちを現場で管理するコントローラになったのが98年でしたが、そのころはギャラが大幅に下落して仕事に見合わなくなったのか、大手芸能事務所も女の子を出さなくなって。サーキットでの待遇も、わたしの時代に比べたら、正直、厳しいものになりましたね……。それでも、レースクイーンとしてサーキットに立ちたいという女子はいて。つくづく、えらいなって思いました。今の子たちもたくましいですよ」
和田選手によれば、レースクイーンを供給する側には“ギャランティではなく、とにかくサーキットに立たせてくれ”と、粘り強さを見せた事務所も存在したそう。結果、レースクイーンの市場価格が下がり、敷居が低くなったことで、数は再上昇した。
そして2000年代、レースクイーンは“第二次黄金期”を迎えることになる。
(第4回に続く)
バナー写真提供/GALSPARADISE