2022.8.15
同人誌の世界は「そこそこ起業」? 推しエコノミーの本質とは何か
同人誌の世界
今回、取材をさせていただくにあたり、Mさんのサークルが販売している同人誌を、都内の同人誌書店を巡って一通り購入させていただきました。創作系同人誌にはこのようなアプローチもあるのかと関心しつつ、一人暮らしの身の上の私が不慮の突然死を迎えた時、私の遺品の中からこの本が出てきたら、親兄弟や友人から死後でも縁切りされそうな、そういう刺激的なジャンルの同人誌でした。
この刺激的な同人誌を作成しているMさんは、専門学校を卒業し広告代理店にデザイナーとして勤務しつつ、Twitterやpixivにイラストを投稿していました。そのSNS上のつながりで得た友人から、コミケでイラスト集を販売しないか、というお誘いを受け、2016年に作り手側としてコミケに初参加したのが、人生の転機となりました。
「2016年の年末のコミケで売って、あと同人書店さんに委託しようと。それでとりあえず、300部刷りましょうと。コミケが12月31日だったので、先に書店さんに委託して、その時に予約を受け始めたのですけど、そこで予約だけで300部が埋まってしまって、急遽追加で700部刷って合計1000部。その後、何ヶ月かして更にもう1000刷って。ざくっと、2〜3000部くらいかな」
初刷の1000部を数年かけて売り切るのが難しい学術出版の世界からすると、発売前に増刷、数ヶ月で3000部の販売というのは羨ましすぎる世界です。しかも同人誌は即売会場と書店委託での販売価格から、印刷代を中心としたコストを差し引いた金額が全て製作者の収入になります。なにより、自分で販売価格を決められるわけですから、人気のある大手サークルなら、それこそ濡れ手に粟の状態になってしまうかもしれません。実際、大手サークルとなると一会場で4桁単位の販売部数を記録し、CG集のDL販売などを手掛けている場合は億ションを購入する方もいるという噂もあります。
「でも、オタクの建前として、同人誌で稼いでいるというというのは、言わないほうが良いんですよ」
同人誌一冊あたりの値段から、一体どれくらい儲かるのか脳内でそろばんを弾いていると、Mさんは釘を刺すように、我が国の同人誌市場の独特の価値観を教えてくれました。
「同人誌って、基本高いじゃないですか。普通の(書店に並ぶ)単行本より、凄く高いんですよ。なんで高い価格が維持されるのかと言うと、大きいところがダンピング(不当に安く販売)することは良くないというのが、共有されている。大きいところがダンピングしちゃうと、小さいところは印刷代だけで赤字になるので。イメージとして、表紙がカラーで中モノクロだと500円。フルカラーだと1000円くらいですね」
確かに、現在コミケに参加するサークルのPRがSNS上にも多く流れていますが、だいたいMさんの言うとおりの横並びの金額になっています。これは、サークルの規模に関係なく、作り手としてコミケに参加するハードルを下げるための暗黙のルールなのです。
もう一つ、注目すべきが、どのサークルも「頒布」という用語を用いていたことです。「頒布」というと難しい表現ですが、希望者に品物や資料を広く「配る」という意味であり、「売り買い」を意味する用語ではありません。
「売っているのではなくて、趣味で作っているものを、適正価格で、みんなでシェアしているって体になっているんです」
サークルとして人気が出て、結果として高級マンションを買えるような稼ぎを得ている人がいるのも事実です。しかしコミケそのものは、一人でも多くの作り手が参加し、同人誌を媒介として同好の士が交流していくための場として設計されているわけです。Mさんは、コミケのことを「作り手に甘い市場」と表現しましたが、一人でも多くの作り手が増えれば、同人誌が増え、コミュニティの参加者全体の幸福が拡大していく、という考えが共有されているのが、同人誌市場であると言えると思います。