2022.6.20
山で生きる祖父が体現していた、本当の意味での「稼ぐ力」

祖父の謎
今ではダムの底に沈んでしまっていますが、四国山脈の山深く、愛媛県と高知県の県境付近に位置する富郷村に、私の父親の実家がありました。私は物心ついた頃から、小学生の間は月に1、2回は父に連れられて祖父の家に遊びに行っていました。
「朝だぞ、起きろ!」
確か小学校1年生の頃です。祖父の家に泊まった夏休みの早朝、前日に山で遊び疲れて熟睡していた私を呼ぶ声が聞こえました。
祖父の声だと思いましたが、同時になんか鼻の周りがくすぐったい。
瞼を開けると、目の前に茶黒い何かが這いずり回ってました。
「うぉっ! 何?」
跳ね起きた私を見て、祖父は笑いながら言いました。
「みーくん、よく見てみろ」
今も昔も、小学生の夏のアイドル、立派なオスのカブトムシでした。
前日、同年代の従兄弟たちと網を片手にカブトムシやクワガタムシを探して、空振りしたのを祖父は覚えていたのでしょう。カブトムシを採って来てくれたのです。
「ほれ、虫かごに入れとけ」
祖父は竹で作られた自作の虫かごを私に渡して、満足げに山に入っていきました。
この時の祖父は、作業服の上下に鉈とザイルを腰からぶら下げていました。おそらく自分の山林で枝打ちか下草刈りをしている中で、カブトムシを見つけて、手づかみのまま私のところに持ってきたのでしょう。私がこのカブトムシを持ち帰って、寿命で命尽きるまでのひと夏、大事に飼ったことは言うまでもありません。
祖父は明治末期の生まれで、第二次世界大戦にも徴兵され、歩兵として中国大陸に渡り、幾つかの勲章も授与された軍人でした。父にとっては、明治生まれの軍人出身者らしく厳しく怖い人だったそうですが、孫である私にとっては、父と並んでアウトドア(山)での生活と遊びを教えてくれる師匠のような人でした。
早春には筍や山菜採りと畑作り、夏はお茶摘みや川での渓流魚採り、秋から冬にかけては畑でサツマイモや柿を収穫して、保存食の干し芋や干し柿作り。祖父にとっては毎年繰り返している生活サイクルの一つでしかありませんが、そばで見て、時々手伝わせてもらうだけですごく楽しい。納屋には農具だけじゃなく狩猟用の罠やマムシの入った酒瓶、自作の水中銃まで無造作に置かれていて、それを弄っていると「コラっ!」と怒られた後、イノシシを捕るための罠の仕掛け方や、アマゴや鮎の突き方を教えてくれたりしました。
小さな頃の私は、祖父が「ロビンソン・クルーソー」的な自給自足の生活をしている人なんだと思っていました。ただ、小学校も高学年になるくらいの頃には、それはありえないとわかるようになります。山の実家には電気もプロパンガスも引かれていましたし、そもそも私を含めた孫たちはお年玉をもらっていました。
父の実家の居間には、祖父が第二次世界大戦時の軍服姿の写真と勲章がいくつかあったので、軍人年金で自給自足しつつ悠々自適の生活をしていたのかというと、それもおかしい。というのも、連載第一回に登場した私の父は、終戦した年に生まれた10人兄弟の三男です。少なくとも、終戦後から10人兄弟の最後の一人が巣立つまでの数十年間、祖父と父の兄弟達は富郷村で稼いでいたはずなのです。