よみタイ

長崎の母のもとから京都へ 第1回 朱墨写経の旅

 知らないまま書き始めて、どうやら「空」が重要なキーワードらしいと感じはじめた。やたら「空」と「無」が出てくるのだ。空、無、空、無。書くうちにおざなりになりがちなので、一行ごとに「いかん、丁寧に」と思いなおし、背筋を伸ばし、また書く、空と無。  
 半分ほど書いたところで、どうしても意味が知りたくなった。本堂内では写真撮影も禁止でスマホも手元にはおいていなかったが、いまここで写経しているのは私ひとり。ごめんなさい、ちょっとだけ、とスマホを取り出し、調べてみた。
 曹洞宗のWEBサイトで見たところ、このお経は弟子に向かい、悟りの道への導きをしたためたもので、空とはなにか? が示されているらしい。どうりで空が多いわけだ。
「舎利子よ、あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもなく、汚れることも清まることもなく、増えることも減ることもない。(中略)眼・耳・鼻・舌・身体・心も存在しない。これらの感覚器官の対象である形・音・香り・味・触れられるもの・心の対象の法も存在しない。(中略)老いて死ぬこともなければ、老いて死ぬことが尽きることもない。苦・集・滅・道という四諦もない。知ることもなければ得ることもない。(中略)心には妨げるものがなく、心に妨げるものがないからこそ、恐怖があることもない」(全国曹洞宗青年会の現代語訳/ 菅原権州師訳文より、一部中略)  
 うむ。死ぬまで経験することができない“死”への“恐れ”をひしひしと感じる。勝手な解釈かもしれないが、人は生きている限り、死への恐れから逃れられないのだろう。だから、死につながる老いも恐れる。それは人に感情があるから、それがなければ、恐れることもなくなる。だからこそ、無で空を目指す修行があり、悟りがある。 また恨んだり妬んだり、誰もがダークサイドを持つからこそ、良いも悪いもない、その判断さえもない、なにもない境地に達しようとするのだろう。ひたすらに安らかな心を求めて、邪念を捨てて、修行をし、徳を積んで。  
 写経も修行の一つ。現代語訳に納得して、さらにやる気を出し、再び書き始めた。
 そして6割方書いたところで、気がついた。
 か、かゆい。  
 どうやら、蚊の家族に発見されたらしく、「おい、こっち、こっち!」と呼びかけあいながら集まってきた。彼らのエサはまさかの私ひとり。
「耳なし芳一」さながらに、露出していた首や足首に蚊ファミリーの襲来を受けた。足を静かにバタバタさせていたら、大胆なやつが、筆を持つ私の手の甲に止まって血を吸っているではないかーっ。彼女のボディのボーダー柄まで見える。 
鈍い私でも、ぴしゃりとやれる、と手をあげたせつ……いや待てよ、ここは仏様の前。殺生せっしょうしていいのか? 薬師如来やくしにょらいさまは見ている、私しかいないのだし。  
 しかも試されているのではないか? 邪念を捨てて専心しているか?と。 うううっと逡巡している間に、満腹になったやつは、ぶうううんと、爪楊枝を使いながらゆっくりと飛び立っていった。 この蚊の家族に、計7、8カ所は刺されただろうか。修行半ばながら、ぺちゃりとつぶしてしまわなかった自分をほめつつ、のこり4割を搔きながら、書ききった。

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蚊の猛攻を受けながらの写経
蚊の猛攻を受けながらの写経

修行を終えたら心願を

 すべて書き終わると、最後に「心願のことを書いてください」とあり、願いごとを書く欄がある。そして奉納先として、泉涌寺派別格本山雲龍院龍華殿とあり、写経願主の欄に、私の名と住所を書くようになっていた。
 ささやかながら修行を終えたら何か願えるのか、願いがあるから修行するのか。 これを書いて、ご本尊に奉納するか、持ち帰るかは自由。
“心が安らかでいられますように”と、“迷うことなく大切な人を大切にできますように”と書いて、私はご本尊に奉納した。さらに手を合わせ、なにより大切なことを願った。
「どうか、母がそちらへ旅立つその日まで、元気で笑顔で過ごせますように。もっと歩けるようになりますように。それから、少なくとも100歳までは、私のそばにいてくれるよう、お願いします。」と。    

 この日から2週間後、母は突然に旅立ってしまった。
 その朝、ごはんを炊き、祖母の仏壇に1膳あげ、そしてこれから食べるための自分の茶碗を準備し、出かけるためにその日もおしゃれしてきれいに整え、そして疲れたのか、ベッドに斜めに横たわって休むようにして旅立った。
 私にとって、いや当の母にとっても思いもかけないことだったはずだ。母は最期の最後まで自分のことは自分でやり、1分も私の時間を奪わず、ただの一度も私を困らせることはなかった。
 数か月がたち、あの日の写経で、「旅立つその日まで母が元気で笑顔で過ごせますように」と願ったのが聞き入れられたのかもしれないと思い至った。
 そこにはありがたさなどなく、ただ愕然とした。どんな姿になってでも、生きていてくれるだけでいいと願うべきだった、と悔やんだ。たのむからやり直しさせてくれと、と。
 それに……仏さま、薬師如来さま、いちばん大切な最後の一言は聞き逃しましたか、と。
  時に母の死を“どんな徳をつんだらそんな死に方ができるのでしょう、うらやましい”と言い、慰めてくれる人がいる。
もしかしたらいつか、母の年になった時なのか? “旅立つ日まで元気で”というあの願いを、私も叶えたいと思うようになるのかもしれない。でも今の私は母に謝り、ひたすら悔やんでいる。
 ただ、無にも空にもたどり着いていないけれど、母がいてくれると思えば、向こうに行くのが少しだけ、怖くなくなった。

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今回登場したお店・場所(不定休の場合があります。事前に確認の上お出かけください)

●ワインショップエーテルヴァイン
〒606-8342 京都府京都市左京区岡崎最勝寺町2-8
TEL/FAX 075-761-6577
営業時間11:00-19:00
定休日 毎週月曜日

●京都村上開新堂
〒604-0915 京都府京都市中京区常盤木町62
TEL 075-231-1058 FAX 075-252-6707
営業時間10:00~18:00
定休日 毎週日曜・祝日・第3月曜

●京のすし処 末廣
〒604-0916 京都府京都市中京区要法寺前町711
TEL 075-231-1363
営業時間 店内飲食:11:00〜15:00 お持帰り:11:00~18:00 (売切れ次第閉店)
定休日 毎週月曜日・火曜日

●泉涌寺派別格本山雲龍院
〒605-0977 京都府京都市東山区泉涌寺山内町36
TEL 075-541-3916 FAX 075-533-7150
https://www.unryuin.jp/

次回は2月27日(火)公開予定です。

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新刊紹介

山脇りこ

料理研究家。東京都内で料理教室を主宰。長崎県の日本旅館に生まれ、四季折々の料理に触れながら育つ。旬の素材を生かした野菜料理や保存食が特に得意。食いしん坊の旅好きで、国内外の市場や生産者めぐりがライフワーク。特に台湾はガイドブックを刊行するほどのリピートぶり。著書に『50歳からのごきげんひとり旅』(大和書房)『50歳からはじめる、大人のレンジ料理』(NHK出版)『食べて笑って歩いて好きになる 大人のごほうび台湾』『いとしの自家製 手がおいしくするもの。』『一週間のつくりおき』(ぴあ)『台湾オニギリ』(主婦の友社)など多数。

http://www.instagram.com/yamawakiriko/

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