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第1回 ママ友の対立──「タメ語」と「敬語」を使い分け、巧みに攻撃!

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敬語?タメ語?

文面を見てまず気づくのは、敬語とタメ語が混在していることだ。親しいママ友間のやりとりではしばしばこのようなことが起こる。このことに何か意味があるのだろうか。

私たちはコミュニケーションにおいて、伝達内容だけでなく「自分がどんな人間であるか」「自分が相手との関係をどう捉えているか」を同時に伝えている。

敬語に関していうと、敬語を使うことによってその人はまず、「自分は丁寧な人間だ」ということを示すことができる。さらに、敬語は「距離」を伝えるものでもある。上下関係のある場合に使用されるのはもちろん、相手との関係に距離感のあることも示す。

ママ友関係において、「保護者」としてのフォーマルな役割を果たす際に、敬語を用いるのは不自然ではない。一方で、「友だち」関係ではこの二人のように、対等かつ親密な関係を構築・確認するためにタメ語が用いられるだろう。このように、敬語・タメ語の使い分けはそのまま「保護者」「友だち」という役割の提示になる。

保護者?友だち?

では、彼女らがどのように敬語・タメ語を使い分けているのかを見ていきたい。

里奈の息子を加害者だと申し立てる(康子1〜2)はタメ語であり、人によっては「きつい」と感じるかもしれない。しかし、敬語を使用して丁寧にふるまうと、どうしても「保護者」の立場から問題を深刻に訴えていることになる。康子はタメ語を使うことで「友だち」だからこそ率直に伝えている、という態度を示している。

それに対して里奈は息子が「加害者」であることを認め(里奈4)、「保護者」としての役割を果たすために敬語を用いつつ、康子の示した「友だち」としての距離を受け入れ、タメ語も交えて返信している。

しかし里奈が帰宅後の息子を問いただすと、本人はそんなことはやっていないという。当然里奈は我が子に濡れ衣を着せたままにはできないから康子にその旨を伝えようとするのだが(里奈5)、そこでもまたタメ語が多く用いられている。康子の息子の主張を否定する内容ではあるが、タメ語を用いることによって、里奈はわが子の主張をサポートする「保護者」ではなく、康子との「友だち」関係の中で語るのである。

敬語で攻撃

ところが康子は提示された「友だち」の枠組みを拒否する。(康子7)では、里奈の主張を無視して「冗談ではすまない」と事態を深刻化させた上、それに応じて語調も敬語へとがらりと変えられている。

この康子の「丁寧」ではあるが攻撃的な態度に対し、(里奈8)は一見「大人」な対応に見える。里奈は、康子が自分の息子を信じる気持ちに理解を示し、自分も同じ母親であるという共通基盤を確認して、共感を築こうとする近しい人間関係に立っているが、一方で敬語を用いてフォーマルさが維持されている。

しかし、続く「明日学校で先生に話し合いを持たせてもらったらどうかな?」ではタメ語に切り替わる。この部分は康子から押しつけられた一方的な「里奈の息子は加害者」という枠組みに対する反撃であり、対立が最も深刻化しうる場面である。しかしタメ語を用いることによって、あくまで「友だち」という親しい距離から語り、攻撃的意図がないということが示されているといえるだろう。

顔文字も駆使

この反撃に対する(康子9〜10)は、言語形式こそ丁寧さが維持されているものの、エクスクラメーションマークや顔文字などで文体はカジュアルダウンしており、ふたたび里奈との距離を近づけるべく感情的に歩み寄る態度を示すものである。「そんな深刻な感じでお伝えしたのではなく」と、一旦硬化させた状況も軽微なものに定義し直している。

しかし、「うちはもう何も気にしていないので」という一言が、里奈の気に触ったようだ。「気にしていない」という表現には本質的に、「本来なら気にすべきことがある」ということが前提されている。しかし里奈からすれば、自分の息子は濡れ衣を着せられて難癖をつけられているのであって、自分たちこそが「被害者」なのである。康子から謝られることはあっても、「気にしていない」などと、まるで里奈の息子に非があったかのような物言いをされる筋合いはない。

(里奈11)で「うちも凛太郎は気にしてない」と同じ表現が用いられていることには、里奈の「自分たちこそが気にする立場なのだ」という主張が表れているといえるだろう。さらに、あえて「うちも凛太郎は」と主語を息子に限定することにより、里奈自身はまだ「気にしている」ことがほのめかされている。(康子9〜10)で顔文字によって提示された「友達」距離にも応じず、里奈は顔絵文字を使っていない。

上記は、あくまでこれまでの調査事例に基づいたフィクションであるが、このような亀裂が入ると、それまでのような親しい付き合いは途絶えることが多い。

ママ友への攻撃の仕方

このやり取りで交渉材料にされているのは、両者の「友だち」としての親しい関係である。彼女らは敬語とタメ語を使い分けることによって、自分が相手との距離をどのように捉えているかを伝え、親しさを担保に相手への心理的な攻撃を行なっている。

攻撃を行う際、罵り言葉を使ったり、乱暴な話し方をしたりすると、それは通常非難の対象になる。「そんな言い方をしなくても」などと、そのふるまいや人となりへの批判を招くことになるのである。一方で、友人や夫婦、親子などの親しい関係では、あえて敬語を使って自分の否定的な感情を伝えることもある。それはそれで、人間関係に意図的に距離を設ける「皮肉」として、こちらの悪意を批判する権利を相手に与えることになるだろう。いくら腹が立っても言い方に気をつけないと攻勢も一転し、相手に自分を責める理由を与えてしまうのである。

しかしママ友には、「友だち」だけでなく「保護者」という役割もあるため(そもそもそちらが前提である)、敬語を使ってその親密な関係性を攻撃されても、批判されにくい。敬語使用は「友だち」としては適切ではなくても、「相手を尊重する」「礼儀正しい」大人という点で、「保護者」としては適格なのだ。彼女らは敬語を用いることによって、「保護者」として適切な体面を保持しながら、明示的な批判を避けつつ親密さに対して攻撃することができるのである。

たとえ「友だち」ではなくなったとしても…

ママ友の内包する「保護者」と「友だち」というこのような役割の二重性は、他の人間関係にも存在する。親しい同僚には「職務上の関係」と「友だち」の役割が期待されるし、子どものいる夫婦にだって「子どもの親」と「夫/妻」という異なる役割が期待される。

しかしいずれの場合も、前者が義務的で逃れられないのに対し、後者の立場はいわば、感情的なつながりを基盤にした両者の合意の上に成り立つ任意の関係である(夫婦の場合は法的な契約が伴うが)。もちろんうまく両立できるに越したことはないが、つまるところ、前者の役割さえしっかり果たせれば、後者の役割は辛ければ無理して続ける必要はない。

この二人も、いかに感情を害そうとも「保護者」として子どもたちの関係を守り抜いたのだから、直接的な友情が途絶えたとしても「ママ友」として立派に機能した関係にあるといえるだろう。

ママ友、それは一つの奇跡

しかし、繰り返すが、現代の子育ては孤立しがちだ。今はもう離れた場所に住んでいる学生時代の友人に毎日気軽に電話をかけ、我が子の成長やちょっとした心配事について話せる人は幸運だ。頼れる親や親戚が近所に住んでいたり、夫に自分と同等の育児に対する意識や関心、スキルがあればなお心強い。だが現実には多分、そんな風に恵まれた人はそう多くはない。だからこそ、ママ友は貴重な存在となる。

仲のいいママ友関係を長く築いていた康子と里奈のようなトラブルを思うとき、もしあなたに今、良好な関係を保っているママ友がいるなら、それは奇跡的なことだと思えてこないだろうか。

***

「保護者」と「友だち」のせめぎ合い(漫画/田房永子)

次回は6月24日(火)公開予定です。

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新刊紹介

大塚生子

おおつか・せいこ
大阪工業大学工学部准教授。専門は社会言語学、語用論。実際に交わされたコミュニケーションをもとに、ことばがどのように人間関係を築いていくかを分析。主な論文は、「ママ友の対立場面におけるイン/ポライトネス分析―感情と品行のフェイスワーク」。編著に、『イン/ポライトネス研究の新たな地平: 批判的社会言語学の広がり』(三元社)、『イン/ポライトネス―からまる善意と悪意』(ひつじ書房)など。

田房永子

たぶさ・えいこ
漫画家。2000年にデビューし、第3回アックスマンガ新人賞佳作受賞。若い頃から母親の過干渉に悩み、その確執と葛藤を描いたコミックエッセイ『母がしんどい』(KADOKAWA)が反響を呼ぶ。そのほか、『しんどい母から逃げる!!』(小学館)、『大黒柱妻の日常』(MdN)、『人間関係のモヤモヤは3日で片付く』(竹書房)、『女40代はおそろしい』(幻冬舎)など話題作多数。

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