よみタイ

鈴木光司「海の怪」

黒い石の願い

 そんな三人の姿を、ウォルターは半分ふてくされながら眺めていた。
 狭いボートで、陽射しを遮るものといえば、ビミニトップと呼ばれる小さな屋根だけ。しかも布製だから、できる日陰はわずかばかりだ。ウォルターは日陰を探してあっちに行ったりこっちに行ったりと落ち着かずにいた。
 ジョアンナのほうはというと、陽射しなどお構いなく滅多に見られない絶景を満喫している。そんな姿を横目に、ウォルターは「こんなところに連れてきやがって」と、苦々しく思っていた。
 そのとき、ポケットに入れた指先に石が触れた。
 そして思い出した。
 ああ、あそこで拾ったんだと。

 ウォルターとジョアンナは、指定された小さな湾に来るまでの間、時間を持て余して、鬱蒼とした茂みにある神殿のような場所に立ち寄っていた。
 その時――
「案内しましょうか」
 突然背後から声をかけられ驚いて振り向くと、いつの間に近くにいたのか、ネイティブハワイアンの老人が立っている。目の前にある台座には、平べったい黒い石がたくさん積まれていた。
「ここは昔から祈りを捧げてきた神聖な場所です。ここで生贄の多くの血が流されたと言われています。この黒い石を持って帰ってはいけませんよ」
「持ち帰るとどうなるんです?」
 ウォルターは興味本位で聞いた。
「そうですね……君たちみたいな結婚したばかりの若いカップルが離婚するとか」
 一見無愛想な老人の冗談かと思い、笑い返そうと老人を見るが、その無表情には笑みのかけらも見えない。
 一瞬、老人の目の奥で何かが光ったように見えたのは、気のせいか。

 ウォルターはそれを聞いて思った。
 イニシアティブを妻に握られて引っ張り回され、これが今後の人生もずっと続くなら、それこそどんな悪いことが起こるんだろう。
 離婚……別れるのもいいかもしれない。
 幸い、婚姻届はハネムーンの後に出す予定だったし、今なら、お互い傷も浅いだろう。旅行で相手と合わないことがよくわかって離婚するなんて、よくある話じゃないか。
 お守りにするような気持ちで、ウォルターは黒い石をこっそり取ってポケットに入れた。

 ボートの上で、手のひらの黒い石を見つめながら、ウォルターは思った。
 この船、今まで経験したこともない大漁だっていうじゃないか。
 なんなんだろう、この石は。悪いことが起こるんじゃなくて、いいことを起こしてくれるんじゃないのか?
 デュボアとナキが興奮気味に話している。
「今日はついているぞ! 彼らを送り届けたらもう一度漁に出よう!」
「絶対に行こう! だって、今日はこんなに運がいいんだから」

 午後2時を過ぎて、ボートは元の小さな湾へと戻ってきた。2人が船を降りるときも、デュボアはすっかりご満悦の様子で、「150ドルでいいよ! こんなに大漁なんだから」と言った。
「負けてくれてありがとう」
 ウォルターはそう返しながら、感謝の印に幸運の黒い石をこっそりとコンソールボックスの中に放った。グッドラックと言い残して、また浅瀬の海をバシャバシャと歩き出す。
 後ろでは、25フィートのボストンホエラーが、再び沖を目指して動き始めた。

 ウォルターとジョアンナは、体を拭いてレンタカーに乗り込み、崖の頂上へと続く坂を上がっていった。すると、遠くから黒い雲がこちらに向かって流れてくるのが見えた。先ほどの紺碧の空とは打って変わって不気味なほどの暗雲だった。
「天気、急変するよ」「大丈夫かな?」
 と、口々に言い合いながら、雲に向かって車を走らせる。その後、ホテルに着いてすぐ、外は大嵐になった。

 翌朝、ウォルターはデュボアとナキのことが頭から離れなかった。持ち出してはいけないと言われた黒い石を神聖な場所から持ち出し、無断で船内のコンソールボックスの中に放り投げたのだ。ヤバいかな、大丈夫かなと、悶々としながらホテルのツアーデスクに向かった。
 何事もなかったかのようにウォルターは尋ねた。
「船長とナキ、戻ってきた?」
「なんでそんなことを聞くんですか?」
 デスクにいたスタッフはハッとした表情だ。明らかに驚いているようだった。訝しげにウォルターを見つめてくる。
「いや、昨日船を降りてすぐに嵐がきたから、なんだかふと心配になって」
「……それが、連絡がつかないんです」
 結局その日の昼になって、25フィートのボストンホエラーが転覆しているのが発見された。
 デュボアとナキの姿は、どこにもなかった。

 転覆した船を想像したとき、ウォルターの頭の中には、コンソールボックスの中に入れた黒い石が宙に浮かび、海にすーっと戻っていく姿が浮かんだ。
 もともと黒い石は、誰かが海から拾ってきて祭壇に載せたものだ。
 海は石にとっての故郷とも呼べるもの。コンソールボックスの中に閉じ込められるのを嫌がって、船を転覆させ、黒い石は故郷に戻ろうとしたんじゃないだろうか。
 ウォルターは自分がしでかしてしまったことを後悔して、罪悪感に耐え切れずホテルの人間に洗いざらい話したのだ。

 世界各地には、生贄を捧げた場所がある。僕はマヤ文明の遺跡に行ったことがあるが、そこでも「絶対に石を持ち帰るな」と言われた。
 さらに不思議なことに、不吉なことが起こる前に、なぜか大漁になることが多い。
 天はいつも何かを知らせる。
 警告が届かなかったとき、あるいは無視したとき――
 猛烈な後悔の念に襲われても、すでに手遅れなのだ。

Keith Levit@Shutterstock
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鈴木光司

すずき・こうじ●1957年静岡県浜松市生まれ。作家、エッセイスト。90年『楽園』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞してデビュー。91年の『リング』が大きな話題を呼び、その続編である95年の『らせん』では吉川英治文学新人賞を受賞。『リング』は日本で映像化された後、ハリウッドでもリメイクされ世界的な支持を集める。2013年『エッジ』でアメリカの文学賞であるシャーリイ・ジャクスン賞(2012年度長編小説部門)を受賞。リングシリーズの『ループ』『エッジ』のほか、『仄暗い水の底から』『鋼鉄の叫び』『樹海』『ブルーアウト』など著書多数。

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